2022年1月に開催する
”感情をベースにつながるオンライン交流会”半歩先の歩き方MEET UP
鹿児島県内で”地域内外から人が集まる場”を運営している6組を「半歩先を歩いている方々」と定義し、各地域から1組ずつゲストに招いて地域における半歩先の歩き方についてお話を伺っていきます。
その中で参加者の皆さんと一緒にゲストの想いを深掘りしたり、参加者からの質問にゲストが答えたり(場合によってはそれぞれが抱えている課題を共有したり)といった双方向的な交流会を行います。
※本記事は半歩先の歩き方MEET UP当日の時間につながる、ゲストそれぞれの事前インタビュー記事です。

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今回は、2022年1月16日(日)19:30〜21:00に登場する指宿市 一棟貸しの宿「木の匙」の浦野敦さん、良美さんです。
– 浦野 敦(うらの あつし)さんのプロフィール
1976年2月生まれ 指宿市生まれの東京育ち。小学校の卒業と共に、父の仕事の関係で香港に移住。高校生までを海外で過ごし、大学進学のために再び東京へ。卒業後は漬物メーカーに就職。2年ほど働いた後、商社に転職。その後も複数の企業で働いた後、2016年に指宿市開聞河尻(かいもんかわしり)へ移住。有機農家として”ユーファーム株式会社”を起業し代表を務めている。2020年には一棟貸しの宿「木の匙」をオープン。3歳の息子の父親でもある。

– 浦野 良美(うらの よしみ)さんのプロフィール
1976年12月生まれ 広島県出身。4歳からピアノを始め、小中学生時代は合唱団に所属。高校までを地元で過ごし、島根県にある大学へ進学。声楽を専攻。卒業後は音楽療法について学ぶために、埼玉県にある専門学校へ。その後上京し、社会人生活を東京で過ごす。2016年に敦さんと一緒に指宿市開聞川尻に移住。”ユーファーム株式会社”では専務取締役を務める。畑仕事に一棟貸しの宿「木の匙」の経営と忙しい日々を送っている。また3歳の息子の子育て中でもある。
– 一棟貸しの宿「木の匙」とは?
2016年に指宿市へ移住した”有機農家”の浦野敦さん、良美さんが経営する新築2階建て、一棟貸しの宿である。
東シナ海と開聞岳を一望できる最高のロケーションに位置し、コロナ禍の2020年8月にオープン。
トイレとバスをはじめ、キッチン、冷蔵庫、洗濯機など生活家電も完備。短期滞在だけでなく、中長期滞在にも対応できる作りとなっている。
宿泊の他、撮影スタジオとして使われることもある。

– 小学校〜中学時代は、地元の合唱団に所属
広島県で三姉妹の末っ子として生まれた良美さん。
2人のお姉さんとは4つずつ離れていて、一番上のお姉さんとは8つ歳が離れています。
良美さん:全員オリンピックイヤーに産まれているらしいんですけど、別にたまたまです。
「今は全然弾けないんですけど」と話すピアノは、4歳から。
小学2年生頃からは、広島市を中心に活動している”広島ジュピター少年少女合唱団”に入団。中学2年生まで続けました。
合唱団を退団したことで歌からは離れたものの、当時所属していた吹奏楽部でホルンを演奏するなど、音楽との距離が近い子ども時代を過ごしたようです。
そんな良美さんに”音楽に触れるようになったきっかけ”について尋ねてみると、
良美さん:親戚に”オペラ歌手でお医者さん”というちょっと変わってるけど、すごいおじさんがいて。
そういう人が親戚にいるとチケットを貰ったりして、一般的な家庭と比べて演奏を聴きに行く機会が多かったんですよね。
それで子どもながらに想像しやすかったり、身近に感じていたのかもしれないです。
また、音楽以外の好きだったことや思い出について尋ねると、
良美さん:家の近くに山があって友達と探検したり、秘密基地を作ったり。
4人ぐらいの友達と一緒に、トランプやお菓子を持ち込んで遊ぶこともありましたね。

– 一度は離れたものの、高校では再び合唱の道に
小・中学校と同様に、高校も広島市にある学校に進学します。
入学後は一度離れた合唱の道に、再び戻ることに。
良美さん:「もう一回合唱を頑張るぞ!」と意気込んでいたわけではなくて、
何の部活に入ろうかな? と思っていた時に人に誘われて「そっか。歌でも良いのか」と思って合唱部に。
そしたら小・中の合唱団で一緒だった女の子がいたりして、3年生まで続けました。
入部した当初を「できたばかりの部だったこともあって、成績は良くなかった」とふりかえる良美さん。
「どうせやるなら!」と練習に励み、3年生の時には、中国地方の大会に出場するほどに。
「バリバリ引っ張ったんですか?」と質問すると、
良美さん:バリバリ引っ張った部分もあるかもしれないけれど、みんなと歌うのが好きだったし、楽しかったからって言うのが大きいかな。
合唱部の顧問の先生にはその後、声楽の先生を紹介してもらって「大学も声楽で行きたい」と思うようになりました。

– 「村人のようだった」とふりかえる東京での暮らし
大学では、声楽を専攻。
教育学部に進学し、中学・高校の音楽教師の免許が取得できる特音課程で学びを深めました。
大学卒業後は、音楽の持つ力を使って心身のケアを行う”音楽療法”について学びたいと、埼玉県にある専門学校へ。
しばらくして拠点を東京に移し、社会人生活が始まります。
良美さん:音楽療法を仕事として続けていくのは難しくて「これ以上やってもしょうがない」と思った瞬間がありました。
それでも人に関わる仕事がしたかったので、当時住んでいた近くにあった診療所の求人に応募。無事に採用してもらって、東京時代はそこで働きました。
東京では杉並区阿佐ヶ谷で過ごし、周辺には小さな飲み屋街がたくさんあったそう。
時には馴染みのお店の草野球チームに参加し、マネージャーとしてスコアをつけたことも。
他にも商店街の仲間と一緒に、お祭りで御神輿を担いだこともあったそうで、「まるで村人のように暮らしていました」と当時をふりかえります。

– チヤホヤされていた記憶が残る幼少期
一方の敦さんは、鹿児島県指宿市生まれの東京育ち。
お母さんの里帰り出産で生まれたため出生地は指宿市ですが、幼少期のほとんどは東京で過ごしました。
どんな子ども時代でしたか? と尋ねると、「チヤホヤされていましたね」という言葉が返ってきました。
敦さん:あんまり覚えていないんですけど、僕は2月生まれなので多分小さかったんですよね。
それで自分で言うのもアレですけど、ちょっと可愛かったらしくて。
友達の親とか先生から「可愛いね」って言われるのが当たり前というか、すごくチヤホヤされていた記憶があります。
「自分でもなんとなく自覚していたでしょうね」と笑いながら話してくれました。

– 勉強を中心とする日々を送った小学生時代
私立の小学校に通うようになると、勉強を中心とした生活に変わっていきます。
「受験に向けてゴリゴリ勉強する学校だった」と話す敦さんに、当時の様子を教えてもらいました。
敦さん:始業、終業は公立の学校とそんなに変わらないんですけど、小4ぐらいから学校が終わった後に、2時間ぐらいの補習が始まりました。
それが終わるとみんな塾に行って、家に帰るのは22時頃かな。受験戦争、真っ只中に入るともっと遅かったですね。
「当時はわからなかったけど、今思うと医者や社長の子どもが多かったですね」とふりかえります。
勉強以外の学校生活について聞いてみると、
敦さん:クラブ活動と委員会活動というのがあって、花の世話をするような係をしていたと思います。
それが今の農業に繋がっているとは思わないですけどね。
そんな風に忙しい小学校生活を送る中でも、長期休みの時には指宿市に足を運んでいました。
敦さん:普段は東京でしたけど、夏休みは指宿市にある祖父の家で過ごしていました。
母によると「お盆は飛行機のチケットが高くなるから」と7月の終わりぐらいに移動して、帰りは8月31日に近づくほど安くなるから結構ギリギリまで。
だから丸々1ヶ月ぐらいですよね。宿題をしこたま持たされた記憶があります。

– 父の仕事の関係で、香港で過ごした中学時代
小学校を卒業後は、父の海外転勤が決まり、家族で香港に引っ越すことに。
海外への移住に対する当時の気持ちを伺うと、「超ラッキー」と意外な答えが返ってきました。
敦さん:中学受験が前提の小学校だったので、6年生になると毎日23、24時まで勉強するんです。
遅くまで勉強しすぎて、体育の授業で倒れちゃう子とかもいっぱいいて。
そういうのを見ていたので「もう受験しなくて良いんだ! 超ラッキー!」と思っていました。
海外に行く不安も多少はあったそうですが、それよりも受験から逃れたことの方が嬉しかったようです。
香港に引っ越した後は、香港日本人中学校に入学。教育的な部分は日本の学校と変わらず、教科書も日本語で書かれていたそうです。
敦さんが暮らし始めた1980年代の香港は治安があまり良くなかったそうで、日本にいた頃と比べると室内で遊ぶことが増えました。
また日本の中学校の場合は給食がありますが、通っていた学校では給食はなくお弁当を持参。
水道水も飲めないため、水筒も持って行きます。
生活環境が大きく変化したことによるストレスが、身体に現れたこともあったそうです。
敦さん:香港って沖縄より南に位置しているので結構暑いんですよね。
都会で圧迫感が強いし、排気ガスも臭い。慣れない部分が多くて引っ越し当初は熱が出たり、蕁麻疹が出たりしてました。
日本人中学校に1年通った後は、英語で教育を行うインターナショナルスクールに転校。
英語でコミュニケーションが取れたり、授業を理解できるようになるまでには、3年ほどかかりました。
敦さん:スクールには色んな人種の子どもが通っていてアメリカ、インド、トルコ、現地の香港人や韓国人も多かったですね。
子ども時代の経験としてすごく大きくて、香港での経験が自分の性格とかを大きく作ってるんじゃないかな、と思います。

– 都市部で社会人として過ごした後、指宿市へ移住
香港で高校を卒業した後は、東京に戻り、大学に進学しました。
敦さん:アメリカの大学に行こうかな、とも思ったんですけど、日本に帰りたかったんですよね。
大学では文化人類学を学びたいと、文学部文化学科に所属。
サークルはバスケットボール部と山岳部へ。山岳部ではロッククライミングをしたり、雪山を登ったりと、本格的な登山活動をしていました。
敦さん:エベレストに登るような人たちが、日本国内の最後の遠征で行くようなところに先輩に無理やり連れて行かれて、その時はゴリゴリの凍傷になって帰ってきましたね。
手袋を三重にするんですけど、テントに戻って脱いだ時に、一番下の肌に触れている手袋が手の形で凍っていて、「あ……まずいな……」と。登っている時は必死だから気づかなくて。
最終日だったこともあってなんとか大丈夫でしたけど「いつか死ぬな」と思って、1年生の終わりぐらいに辞めました。
2年生以降は格闘技が好きだったことから、町の道場でテコンドーを習うように。大会にも出場するなど、その魅力にはまっていったそうです。

そうして4年生を迎え、就職活動に入っていきます。
敦さん:1998年頃が就活の時期だったんですけど、就職氷河期と言われていました。
本当に就職が難しい時期で入るところがなくて、新卒は漬物メーカーに営業職で入りました。
望んでいた就職ではなかったこともあって2年ほど働いた後、食品を扱う商社に転職。
しかし、しばらくして倒産してしまい、機械を扱う商社へ。
その後も、金属輸入や医療系の備品を扱う商社など複数で経験を積みました。
商社時代は終電に間に合わず、週に3日はタクシーで帰宅するような日々。
通勤の満員電車にもしんどさを感じるようになり、慌ただしい東京での生活に疲れ果てた敦さんは、指宿市への移住を考えるようになります。
敦さん:商社での経験があったので、最初は鹿児島の商材をまとめて東京で販売したり、海外に輸出することを考えていました。
だけど、どんな商材があるのか知らなかったんですよね。
そこで自分で農業をやれば横のつながりもできてくるから、そこから仕入れられるかな? と。
そうして幼い頃の思い出が残る指宿市で農業に取り組むことを決意し、良美さんと一緒に移住。
2016年の出来事でした。

– 敦さんと良美さん。2人の出会いについて
話題は少しさかのぼり、2人の出会いについてお聞きしていきます。
良美さん:出会ったのは、当時住んでいた阿佐ヶ谷北口駅前に”スターロード”っていう飲み屋街があって、そこにあるバルって言っていいのかな?
敦さん:カウンターしかないお店ね。
そのお店で、1人で飲んでいた敦さん。
一方の良美さんは別の人と待ち合わせをしていましたが、その人が敦さんと良美さん両方の知り合いだったことから、3人でお酒を楽しむことに。
良美さん:その日は3人で2〜3軒ぐらい回って、何日か経った後に2人で飲むことになって、それでなんとなく……みたいな感じですね。
そうして東京での暮らしを一緒に重ね、付き合って3年ほど経った2012年に結婚しました。

– 新規就農を目指し、夫婦2人で指宿市へ移住
そして結婚から約4年後の2016年に、新規就農を目指して指宿市へ移住。
農業の基本を学びながら実践を重ね、移住して2年目に有機農家として独立しました。
2018年に有機JAS認証を取得し、プライベートでは息子さんが誕生。

翌年の2019年には敦さんが代表取締役社長を、良美さんが専務取締役を務める”ユーファーム株式会社”を設立。
指宿市の名産品のオクラや、スナップエンドウ。そら豆やサツマイモといった様々な農作物の生産・販売を行なっています。
そうして有機農家として日々を送る中で、2020年には一棟貸しの宿「木の匙」をオープンしました。

– 一棟貸しの宿「木の匙」が生まれた背景とは?
転機となったのは敦さんの幼い頃の思い出が残る、祖父の家から海へと続く道。その道沿いの土地が売りに出されているのを発見したことです。
とはいえ、その土地を発見する前から宿経営の計画事態は頭に浮かんでいたようです。
良美さん:有機農家だけでは食べていけないだろうなっていうのがあって……
敦さん:畑の面積を3倍に増やしたらいけるだろうな、っていうのはあったんですけどね。
良美さん:自分たちがやりたいような農業をイメージした時に、畑の面積を3倍に増やして、ひたすら芋を植えてまとめて出荷するっていう農業はちょっと違うかな、と。
敦さん:それが一般的な農業のスタイルではあるんだけどね。
良美さん:そうなんだけど、面白いとは思えなかった。ちゃんと時間をかけて作りたいし、できるからと言って同じものばかり作りたくない。
自分たちが楽しいと思える農業じゃないと、やる意味が薄れてしまうような気がして。
かといって夫婦2人だと生産量も限られてしまって売上的にどうにもならないから、農業以外の何かをしないと……っていうのが元々あって。
じゃあやるとしたら、ゲストハウスかな? と。
最初は空き家を使うことを検討していましたが、様々な点を考慮し、最終的には新築で建てることを決意しました。
敦さん:自分たちが良いと思っている海と開聞岳が見える空き家を見つけるのが相当難しいよねってことと。
見つかったとしても交渉ができるのかな? と。
あとは古民家を改修してゲストハウスをやっている友人から「めっちゃ高いよ」と聞いてたんですよね。新築でもそんなに変わらないよ、と。
良美さん:それだったら新築で建てた方が良いよね、と判断しました。
– 土地購入から始まった宿づくり
新築で建てることを決断し、土地を購入。
設計に関しては移住後に友人となった設計士の方に依頼し、工務店や大工仕事に関しても友人たちにお願いしました。
木の匙の看板となるロゴについても、良美さんが考えたイメージを小学校の同級生だったデザイナーに依頼し、現在の形になりました。

「本当にお友達に恵まれました」と話す良美さん。
そうして土地を購入するところから始まった宿づくりは、2020年7月に建物が完成。
8月から営業がスタートしました。

– 【有機農家 × 宿経営】二足の草鞋を履く敦さんと良美さん
一棟貸しの宿「木の匙」は2階建てになっていて、
視界の端から端まで広がる海や、”薩摩富士”と表現されることもある美しい開聞岳を、心ゆくまで眺めることができます。

コロナ禍でのスタートとなったものの、家族連れやグループ客をはじめ、様々なお客さんが足を運んでい流ようです。
ゆくゆくはここにしかない風景を求めて、都市部からも人が訪れるようになっていくでしょう。
有機農業と宿経営。
どちらも未経験からスタートし、様々な一歩を踏み出しながら、自分たちらしい道を作ってきた敦さんと良美さん。
宿の営業を始めて1年半が経った現在も「もっとこうなったら良いな」と考えていることがあるそうです。
敦さん:有機農家が経営する宿として、農業体験とかもやっていきたいと思っているんですけど、ちょっとまだうまくイメージができてないですね。
良美さん:やり方だったり料金体系だったり。
私たち自身が、”お客さんに満足してもらえる農業体験とは?”が掴みきれていなくて、どうしたら良いのかな? と考えている最中です。
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オンライン交流会当日は、一棟貸しの宿「木の匙」や”有機農家と宿経営の両立”といったお話しをメインに伺っていきます。
指宿市の浦野敦さん、良美さんが登場する「半歩先の歩き方MEET UP」は、2022年1月16日(日)19:30〜21:00です。
参加申し込みと事前質問は、こちらから(参加無料)↓
詳細については、Facebookイベントページまたは、EIGOの参加者募集記事をご覧くださいませ。
− オンライン交流会当日は、FacebookまたはYouTubeから
開始の時間になりましたら、EIGOのFacebookページまたは、YouTubeアカウントからご参加ください。
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半歩先の歩き方MEET UPは、鹿児島県から「つなぐ・つながる連携の場づくり事業」を受託したNPO法人頴娃おこそ会が実施いたします。
– 本事業の概要をまとめた冊子が完成しました!
(2022年4月追記)
「”感情をベースにつながるオンライン交流会”半歩先の歩き方MEET UP」の概要をまとめた冊子が完成しました。
冊子の中には本事業の中で生まれた大切な言葉の一つである、
”地域をつくっているのは「感情を持つわたし達ひとりひとり」である”
を1ページ目に明記し、県内6地域で活動されている方々のインタビュー記事(EIGOで公開したものと同じ内容になります)を掲載。
また、2週にわたって6日間の開催となった「半歩先の歩き方MEET UP」の舞台裏や、交流会の様子についてまとめています。
全40ページにわたる冊子の内容は、下記からPDFデータでご覧になれます。
県内の何処かで冊子本体を見つけた際は、ぜひ手に取ってみてくださいね〜!