2022年1月に開催する
”感情をベースにつながるオンライン交流会”半歩先の歩き方MEET UP

鹿児島県内で”地域内外から人が集まる場”を運営している6組を「半歩先を歩いている方々」と定義し、各地域から1組ずつゲストに招いて地域における半歩先の歩き方についてお話を伺っていきます。

その中で参加者の皆さんと一緒にゲストの想いを深掘りしたり、参加者からの質問にゲストが答えたり(場合によってはそれぞれが抱えている課題を共有したり)といった双方向的な交流会を行います。

※本記事は半歩先の歩き方MEET UP当日の時間につながる、ゲストそれぞれの事前インタビュー記事です。

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今回は、2022年1月14日(金)19:30〜21:00に登場する南九州市 みやまる商店の川口塔子さんです。

− 川口 塔子(かわぐち とうこ)さんのプロフィール

1990年生まれ 鹿児島市出身。高校を卒業後、山梨県にある短大に進学。その後、4年制大学に編入学のため上京。社会学部にて学びながら、NPOへのインターンや東日本大震災後の東北での活動に積極的に参加。卒業後は都内スタートアップ企業に就職し、大学生向け自転車シェアリングサービスの新規事業立ち上げに関わる。その後転職し鹿児島県への移住支援を行う「移住相談員」として2年間働いた後に、南九州市頴娃町へ移住。地域おこし協力隊として活動。現在は独立し、知覧茶コーディネーターとして新規サービス開発やお茶のプロデュースを行う傍ら、頴娃町宮脇地区の地域団体”NPO法人いっしょき宮脇”のメンバーとして、地域拠点「みやまる商店」の運営も行っている。

− みやまる商店とは?

2018年にスタートした「南九州市コミュニティプラットフォーム事業」をきっかけに、2019年に設立された”NPO法人いっしょき宮脇”が運営する地域拠点。カフェ機能や駄菓子屋さんが設けられ、地域住民をはじめ様々な人が訪れる場となっている。

NPO法人いっしょき宮脇は「12時間リレーマラソン」や「まちの楽校」といった企画を多数実施しており、みやまる商店はそれらのイベントを開催する際の拠点として使われることも多い。

− 英語や国際的な話題に関心が強かった幼少期〜高校時代

鹿児島市で生まれた塔子さん。兄が1人いるものの、9つ上だったこともあり幼少期は一人っ子のようにして育ちました。

小・中学校を地元で過ごし、高校も同じく鹿児島市にある進学校へ入学。しかし詰め込み式の教育方針に馴染めずに、3年生の時に退学することに。

 

塔子さん:中学校の時は人前に出て話をしたり、弁論大会に出たり、英語のスピーチコンテストに出場したり。

スポットライトを浴びたっていうのもあって「これは自分にできることなんじゃないか」って、自分に対して自信を持っていました。

 

先生にも褒められ、自分らしくいられた中学時代。それゆえに高校の押さえつけるような教育方法にどうしても馴染めず、3年生の5月に退学を決意。

 

塔子さん:「自分がここにいる意味って何だろう?」みたいなことを、すごく考えるようになってしまって。

最終的には「ここで過ごしても自分らしくいられないな」と別の高校の通信制課程に転校しました。

 

通信制課程に転学した後も勉強にはあまり身が入らず、リハビリとして新聞を毎日読むように。

実家が取っていたのは全国紙で、様々な情報に触れる中で次第に社会に目が向くようになっていきます。

 

塔子さん:進学校でそのまま過ごしていたら、そこまで社会に目が向かなかったかもしれないですね。

 

政治や社会政策に関心を持つようになった塔子さんは、次第に「現場を見たい」という思いが強くなっていき、”ODA(政府開発援助)民間モニター”という事業に応募します。

これは”日本が海外に対して支援している物やコトについて、正しく税金が使われているかどうかを民間の人たちが実際に見て評価してください”という内容で、塔子さんは高校生枠で応募。

そして、フィリピンに行くことに。

 

塔子さん:実は小学生の時から英会話教室に通っていたり、最初の高校も英語推薦で入学していて、元々英語や国際的な分野にすごく関心があったんです。

中3の時に鹿児島市の事業でアメリカに行ったこともあって、その時に言葉の障壁よりも心がつながれば……というか、国同士の壁ってあんまりないのかな?と実感しました。

中学の時のアメリカと、高校の時に行ったフィリピンでの経験は自分の中でかなり強烈に残っています。

当時は国際問題とかに対して、すごく関心が強かったですね。

− 自分が真剣に向き合える社会課題って何だろう?を探した大学時代

高校卒業後は1年間の浪人を経て、山梨県にある短大に進学。その後、社会学を勉強するために東京の大学に編入学します。

 

塔子さん:高3〜浪人時代を過ごしていた頃に、”社会起業家”という言葉を本や新聞でよく目にしていて。

社会的な課題に対して事業を経営し、ちゃんとお金を稼ぎながら解決しているその人たちに会いたいな、と思って東京に行くことにしました。

 

高校時代に国際的な問題に触れたものの、どうしても遠い課題のように感じ「自分が手の届く範囲じゃないとアプローチもできないし、解決もできないだろうな」と思ったそうです。

 

塔子さん:当時の自分は「両手を広げて届く範囲内で何かやりたいな」と思ったんですよね。

最終的には地域で活動を進めていく塔子さんですが、当時はそこまで定まっていたわけではなく、18〜23歳ごろは「自分が真剣に向き合える社会課題って何だろう?」と答えを探し続けていたようです。

− 大嫌いだった鹿児島に「必ず帰ろう」と強く思った

山梨県の短大で過ごしていた1年生の3月に、東日本大震災が起こります。

 

塔子さん:当時は山梨県に住んでいて、信じられないほど揺れたんですね。計画停電の範囲にも入ってしまって、夜に電気が来ない時もあって。

買い占めみたいなのも目の当たりにして「山梨でこんな状態なのに、現地は一体どうなっているんだろう?」と。

その中で自分にできることがあれば、と思って現地に向かいました。それこそ、手の届く範囲に行かなきゃぐらいに思ってしまって。

 

自分の内側に生まれた思いに従って、次々に行動を起こしていく塔子さん。

東北の現地に足を運んだことは、その後の人生の選択に大きな影響をもたらします。

 

塔子さん:ちょっと話が戻るんですけど、最初の高校に通っていた頃、鹿児島に嫌気が差していたんです。

ここにいたら潰れていくだろうっていうのも、なんとなくわかっていて、外にでたい。つまりは、鹿児島が大嫌いだったんです。

ところが東北に行った時に「この状態が鹿児島で、私がいない時に起きたら後悔するだろうな」って、すごい強く思ったんですよ。それが自分にとって一番の原体験なのかな。

 

「両親や大切な友人が路頭に迷って辛い思いをしている時に、何もできない自分でいるのは嫌だ」という思いから、いつか鹿児島に帰ることを決意。

 

塔子さん:とはいえ、自分にはまだ経験もスキルもないから「まずは東京で経験を積もう」と大学時代はNPOでインターンをしたり、大学のゼミを通して東北に関わり続けたりと、色んなところに足を運んでいましたね。

− 早く成長したい思いを胸に、ベンチャー企業に就職

いつか鹿児島で活かせる経験やスキルを身につけるために、大学卒業後はベンチャー企業に就職。

就活のはじめは広告業界や芸能プロダクションなど、人に何かを伝える仕事を中心に探していたそうですが、ある時ペットボトルの上に付いているおまけの品(業界用語でプレミアム)を作っている会社に出会ったことで、就職活動の方針を切り替えることに。

 

塔子さん:”おまけの品によってペットボトルの付加価値をあげる”っていうことをやっている会社に出会った時に、なぜか急に「0から何かを生み出して、価値をつくるってすごい!」と思って。

そんな0から創り出されたものを広げる仕事がしたいと思って、ベンチャー企業に就職することを考えるようになりました。

 

なぜベンチャーだったかというと、理由は2つあったそうで

1つ目は、”新しいものが生まれる環境であり、人に伝える広報のポジションが空いていたから”

2つ目は、”最新のスキルや情報に触れられて、人脈も広げられるから”

東京での生活は、ある意味で修行だと自分に言い聞かせ、なるべく早くスキルが身につけられる環境を選んだそうです。

− 猛烈に忙しかった社会人1年目が今につながっている

塔子さん:社会人1年目は猛烈に忙しくて、正直あの経験がなかったら今はないと思うぐらい鍛えられました。

先輩たちも厳しいキャリアを経ている人が多くて、起業家精神みたいなものを叩き込んでもらいました。

 

シェア自転車の事業に関わる中で、システム開発のエンジニアとやり取りをしたり、アプリ開発に関わったり。

サービスを販売するための手法について直接経営陣と話したり。一見すると充実した新卒時代を過ごしているようですが、段々とある思いが生まれていきます。

 

塔子さん:多種多様に色んな経験をさせてもらうんですけど、たまに軸を見失いそうになる時があって。

学生の時に生まれた「いつか鹿児島に帰りたい」という気持ち。

それが見え隠れするようになってからは、プライベートでも良いから鹿児島との接点を持ちたいな、と思うようになったんですよね。

− 東京にいながら、鹿児島との接点を持つ

忙しい1年を過ごす中で「東京に居ながら、鹿児島に関わる方法はないだろうか?」と模索し、見つけたのが鹿児島県庁主催の離島に関わるプロボノ事業。

”鹿児島県内の地域づくりを、東京の企業に勤めている人たちが遠隔で支援しましょう”という内容で、塔子さんは種子島でウミガメ保全の活動をしているNPOの支援に関わります。

 

塔子さん:その時は本業の傍らで……という感じだったんですけど、一歩踏み出したことで、段々と「これが本業になったら良いな」って思い始めるんですよね。

 

気持ちが次の展開に移ると共に、転職活動をスタート。鹿児島県庁が募集していた”東京で移住相談員を募集します”という求人に応募し、無事採用されます。

ベンチャー企業から一転して、東京にあるNPO法人ふるさと回帰支援センター(全国45道府県の地域情報を揃えているセンター)で移住希望者に対して支援を行う”移住相談員”の仕事を始めます。

そこでは移住したい人に対して移住のノウハウを伝えたり、移住セミナーや研修をしたり。

ワークショップで移住希望者の考えを深めていったりと、移住に関わる幅広い業務を担当していたそうです。

 

塔子さん:そんな風に移住したいと思っている人と毎日話していると、自分も鹿児島に帰りたいという気持ちが強くなっていくんですよね。

− 鹿児島のお茶が知られていない現状に課題を感じる

鹿児島県は言わずと知れた農業の町。特に塔子さんが現在活動している南九州市は、お茶の産地です。

にも関わらず移住相談員として都市部の人と話していると「鹿児島ってお茶を作っているんですか?」と驚かれることがしばしばあったようで……

 

塔子さん:移住希望者の中には農業を希望する人も多くて、会話の中で「鹿児島はお茶の産地なんですよ」という話を当たり前にするんですけど、全く知られていないんですよね。

「これはどういうことなんだ?」と疑問を抱くようになりました。

-お茶の葉の写真-

 

鹿児島県外に情報が届いていないことに社会課題を感じた塔子さんは、南九州市でお茶を作っている生産者さんの元を訪ね、直接話しを聞いていくことに。

 

塔子さん:お茶は確かに安いイメージはあったんですよね。昔と比べると今はあまり良くないんだろうなって。でも実際に生産者さんと会ってみると、みんな前向きなんですよ。

会話の中で「一緒に何かやりたいね」と言ってくれる生産者ばかりで、その瞬間に「ここだったら何かできるんじゃないか」とすごく強く感じました。それが移住する前の年の出来事ですね。

 

この出来事をきっかけに、南九州市への移住を決意。移住相談員として数々の支援を行ってきた塔子さんの移住です。

一体どんな風に進めていったのか? 詳しく伺ってみると……

なんと移住相談員の立場と経験を活かして、移住するまでの間に地元の行政と生産者と協力してバスツアーを開催!

準備を通して南九州市内の様々な事業者と顔を合わせながら、戦略的に人脈を作っていったそうです。

 

塔子さん:バスツアーを実現できたおかげで、移住後は「あの時の川口さんね」と言ってもらえる状態でした。

もちろん、初めましてもたくさんあったんですけど、知っている顔が多い状態で移住できたので、気持ち的には少し楽でしたね。

− 地域おこし協力隊として南九州市へ移住

南九州市は知覧、川辺、頴娃町(えい町)の3つの町が合併して生まれた市で、塔子さんは頴娃町に移住することに。

また行政が移住の窓口を設置するタイミングだったこともあり、移住相談員の経験を評価されて、地域おこし協力隊として着任することになりました。

ローカルへの移住において難航しがちな家探しは、地域のおじさんの根回しによって築100年の古民家を借りられることに。

仕事と住居が決まり、ひとまずは安心……! と思いきや、

 

塔子さん:協力隊として移住生活が始まったんですけど、元々はお茶の仕事がしたくて南九州市に来てるんですよ。

それで、どうしようかな? と考えて、お茶を楽しんでもらうコミュニティ WACHAEN(わちゃえん)を作りました。

-WACHAENのロゴマーク-

 

塔子さんが暮らす築100年4LDKの古民家で地域の人とお茶会をしたり、お茶の淹れ方講座を開催したり。

南九州市を飛び出して、県内各地でお茶と掛け合わせたイベントを実施したり。

そうした活動を通して「私お茶のことやってます。お茶が好きです!」とアピールを重ねていきました。

「鹿児島のお茶の知名度を上げたい。お茶のPRやコンサルタントとして仕事をしたい」という思いを持って南九州市に拠点を構えた塔子さん。

とはいえ、そういった仕事は地域にとってはあまり馴染みがないもの。

それまで地域になかった仕事を1から作っていくということは簡単なことではなく「形になるまで3年かかった」と話します。

− 南九州市での暮らしに慣れてきた頃「足が腫れてる」

協力隊としての仕事やお茶に関わる活動と並行して、地域の行事や飲み会にも積極的に参加する日々。

そうして段々と地域の人から「あの塔子ちゃんね」と認識してもらえるようになった頃、足に異変が起こります。

 

塔子さん:協力隊が半年経った頃ぐらい。最初は「足が腫れてる」って思ったんです。

でも何もわからないんですよ。腫れているのは太ももの裏で、表から見てると気づかなくて。ある時、鏡を見て気づいたんです。

「あれ?何かこれ像の足みたいだな」って。

 

たまたまその日に地域で太鼓の練習があって、メンバーにも足の腫れを見てもらうことに。

すると「その腫れ普通じゃないよ」「明日休んで病院にいったほうが良いよ」と口々に言われ、隣の指宿市にある整形外科に向かいます。

 

塔子さん:たまたま鹿児島大学病院から赴任してきていた先生に診てもらうと「これは悪性を疑った腫瘍かもしれませんね」って言うわけですよ。それで「腫瘍って何だ?」みたいな。

アホみたいな話なんですけど、その場では「悪性の腫瘍って何だ?」ってなって。

帰りの車の中で「悪性の腫瘍ってガンだよな?」と。

 

その後、専門の先生に診てもらい悪性であることが確定。

「治療をすれば他の人と同じように80〜90歳まで生きられる」とは言われたものの、「ベストな方法は切断です」とショッキングな内容が伝えられます。

 

塔子さん:切断とは言うものの主治医もそれは病理学的な見解であって、本来的なベストではないことはわかっていて「温存したいですよね?」と。

でも温存するためには、手術で取れるところまで持っていく必要があって、そのためには抗がん剤治療で小さくしないといけません、と。

 

塔子さんの足にできたガンは前例が少なく、これといった手術方法が確立されていない状態。さらに抗がん剤治療も、今まで打った人の全体の3分の1しか効いていない現実。

それでも切断を逃れるために、医療チームと共に立ち向かいました。

 

塔子さん:抗がん剤を6ヶ月打ちましょうってなって、最初の3ヶ月打ったら全く効いてなくて「あ、これもう終わったな」と思いました。

それでも抗がん剤治療を続けたところ、奇跡的に最後の2ヶ月で急激に小さくなっていき……過去、大学病院の整形外科で1番効いたと先生たちは言ってましたね。

レベルの強い抗がん剤を打ったことで髪の毛をはじめ、全身の毛が抜け落ちたという塔子さん。

時には無菌室に入ったこともありました。

壮絶な内容にしばし呆然としながら取材を続けていましたが、ここでさらに驚いたのが”塔子さんが治療の合間に頴娃町に帰っていた”こと。

− 頴娃町やお茶に関わっている方が自分らしくいられた

塔子さん:抗がん剤治療で下がった白血球を上げる注射があって、本当は入院しながらじゃないといけないんですけど、

主治医に実家に帰りたいと伝えたら「どこにも出ないなら良いよ」と言われたので、実家から通っていました。

そして「白血球の数値があがり、免疫機能が回復しました」となったら、頴娃町に戻ってきていました。

 

頴娃町に戻っても2週間ほど経ったら再び入院です。

鹿児島大学のある市内から頴娃町まで車で1時間ほどの距離とはいっても、そこまでしてなぜ頴娃町に? と尋ねると、

 

塔子さん:実家にいたら多分、病気病気になっちゃうんですよ。でも頴娃町に帰ってくると「地域の塔子さん」

一緒に遊ぶ子ども達にとっては「地域の塔子姉ちゃん」だし、子ども達にとっては病気だろうが何だろうが関係ない。だから子ども達と遊んだり、お菓子作りをしたり。

ご飯も一緒に食べてくれる家庭があって、その人達と一緒に食事をして、時には桜を見たり。もっといえば、お茶のイベントも治療の合間にやってたんですよ。

 

他にも祭りの司会やマルシェの企画・実施も行っていたそうです。

祭りの司会は、治療中の足に包帯を巻いてウィッグを被って喋ったらしく、思わず「地域の人は止めないんですか?」と質問すると「止める人はいないよね」と笑っていました。

 

塔子さん:私は多分、小さい目標がないと頑張れなくて。もっと言えば小さな予定かな。

それがスケジュールに入っていることがすごく大事で「このお茶会をWACHAENでするんだ。自分がやりたいお茶のことをやるんだ」って言うのを目標に薬を打っていたような感じですね。

 

「病院や実家で過ごすよりも、頴娃町だったりお茶に関わっている方が気持ち的に楽だったし、自分らしかった」と10ヶ月間にわたった治療生活をふりかえる塔子さん。

今も経過観察中ではあるものの、入院生活が終わった際には地域の人と一緒に「頴娃町に帰ってきましたお茶会」をしたそうです。

− 客観的な目線を持ちながら、地域とつながり続ける

頴娃町での暮らしが再びはじまった頃「南九州市コミュニティプラットフォーム事業」が始まり、頴娃町宮脇地区で暮らす人の要望に合わせて活動する団体として、”NPO法人いっしょき宮脇”が立ち上がります。

”ともに次の時代の宮脇をつくる”をミッションに掲げ、
”自立型地域社会による共助と共創の実現”をビジョンに、地域拠点「みやまる商店」やキッチンカー「Kamom Car」の運営。

また地元の高校と連携した地域活動や、「12時間リレーマラソン」といった一風変わったイベントなどを行っています。

 

塔子さん:究極的にいうと、宮脇地区のための組織ですね。

究極を言うと「宮脇地区で暮らす2,000人が幸せだったら、それで良いよね」なんですよ。

 

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オンライン交流会当日は、”NPO法人いっしょき宮脇”や地域商店「みやまる商店」のお話しをメインに伺っていきます。

南九州市の川口塔子さんが登場する「半歩先の歩き方MEET UP」は、2022年1月14日(金)19:30〜21:00です。

参加申し込みと事前質問は、こちらから(参加無料)↓

▼半歩先の歩き方MEET UPの参加を申し込む

詳細については、Facebookイベントページまたは、EIGOの参加者募集記事をご覧くださいませ。

− オンライン交流会当日は、FacebookまたはYouTubeから

開始の時間になりましたら、EIGOのFacebookページまたは、YouTubeアカウントからご参加ください。

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半歩先の歩き方MEET UPは、鹿児島県から「つなぐ・つながる連携の場づくり事業」を受託したNPO法人頴娃おこそ会が実施いたします。

– 本事業の概要をまとめた冊子が完成しました!

(2022年4月追記)

「”感情をベースにつながるオンライン交流会”半歩先の歩き方MEET UP」の概要をまとめた冊子が完成しました。

冊子の中には本事業の中で生まれた大切な言葉の一つである、

“地域をつくっているのは「感情を持つわたし達ひとりひとり」である”

を1ページ目に明記し、県内6地域で活動されている方々のインタビュー記事(EIGOで公開したものと同じ内容になります)を掲載。

また、2週にわたって6日間の開催となった「半歩先の歩き方MEET UP」の舞台裏や、交流会の様子についてまとめています。

全40ページにわたる冊子の内容は、下記からPDFデータでご覧になれます。

県内の何処かで冊子本体を見つけた際は、ぜひ手に取ってみてくださいね〜!

かざり

かざり

2019年に移住。2023年1月まで南九州市頴娃町の地域おこし協力隊として活動し、卒業後も同じ町で過ごしています。ライターや広報の仕事をしながら、地域でも活動中。好きなドリンクは、赤いコーラです。