頴娃(えい)に行ってみたくなる景色を提案する。頴娃の魅力を記録するをコンセプトに、EIGO編集部が、鹿児島県頴娃(えい)町で暮らす人々を訪ねて質問を重ねる「Ei Talk/えい会話」

4組目のゲストは、りょうこさん・しんじさん夫婦です。

りょうこさんとしんじさんのご紹介(プロフィール)

久保山 綾子さん(旧姓は山脇):りょうこさん
1987年 農家の長女として、南九州市頴娃町で誕生。中学校を卒業した後は、町外の高校に進学し寮生活を送る。高校卒業後は、栄養士の資格が取れる短大に進学し、卒業後は県内の老舗和菓子屋さんに就職。約2年半働いた。2010年9月に、野菜菓工房 楓fu- を開業。2019年には「目指せ地域のピンチヒッター!? 畑と食卓をつなぐ拠点づくり」と題し、クラウドファンディングで店舗移転改修費用を募り、100人以上の支援者から約130万円を集めた。

久保山 晋治:しんじさん
1977年 佐賀県生まれ。18歳で土木関係の仕事に就き、九州各地で転勤を経験。35歳の時にそれまで趣味で行っていたスキューバダイビングを仕事にしたいと考え、プロ資格を取得。しかし内臓に疾患が見つかったことから、仕事にするのは見送ることに。それ以降は「自然に関わる仕事をしたい」という思いから、2社の農業生産法人で勤務。2018年1月に独立し、農薬を使わない野菜づくりを行う、りんふぁ~むを開園。約3反(900坪)の農園主となる。

頴娃が嫌いだった、小・中学校時代

南九州市頴娃町で、5人兄弟の長女として生まれた、りょうこさん。

中学校を卒業した後は「自分のことを知らない人たちの中で生活したい」と考え、町外の高校に進学し寮生活を送りました。その背景には、頴娃が嫌いだった小・中学生時代があります。

 

りょうこさん:
頴娃を嫌いになった理由には、両親の存在が影響しています。わたしの両親は農業を30年ほどやっていて、最初の10年は慣行栽培(かんこう栽培)という農薬や化学肥料を使用する、従来型の栽培方法で農作物を育てていました。

しかし段々と従来のやり方に疑問を持つようになって、それ以降は農薬を使わない有機栽培に力を入れています。今でこそ有機農業やオーガニックといった言葉を見聞きするようになりましたが、当時は知っている人の方が少ないぐらいで。

頴娃は一次産業の町でもあるので、たくさんの農家さんがいるんですけど、そのほとんどは慣行栽培で野菜を育てています。その中で農薬を使わずに野菜を育てている両親は、とてもマイノリティな存在でした。だからある意味で、変人的な扱いを受けていたように思います。そういうものが積み重なって、幼心に居心地の悪さを感じるようになっていきました。

ローカルに限らず新しいことをはじめる時には、周囲から思わぬ評価を受けてしまうことが多々あります。りょうこさんの両親がはじめた有機栽培もその1つで、最近では有機農業やオーガニックは体に優しいもの、地球環境に配慮しているものと前向きに評価されつつあります。

しかしながら当時の頴娃の農家さんの中には、有機栽培に対して変わったことをしていると感じる方も少なからずいたようです。

 

りょうこさん:
そんな日々と並行して学校が休みの週末や部活のない日、それこそ春休みや冬休みといった長期休みには、畑の草取りや収穫、出荷作業のお手伝いをしていました。あの頃は学校以外の時間のほとんどを、畑で過ごしていたような気がします。

その他にも兄弟たちと一緒に、家の掃除や家事のお手伝いなどもやっていました。我が家の場合は、働かざる者食うべからずで育てられていたので、自分から行動するのが当たり前だったんです。

ところが学校に行くと、そういったことが当たり前ではなくなるんですよね。例えば、部活動の時に先輩がやっている仕事を積極的に代わるとか、先生が話した内容を自分なりに解釈して行動に移すとか。そういったことを自分としては当たり前だと思ってやるけれど、同級生からは「どうしてそこまでやらないといけないの?」「いい子ぶりっ子している」と良く思われない時期もありました。

当時をふりかえると、わたし自身も同級生に対して「どうしてそんなこともできないの?」と憤っていた部分もあったような気がします。きっと同級生よりも大人になるのが、少しだけ早かったんでしょうね。

 

生まれ育った町だからこそ感じる居心地の悪さを抱えていた小・中学校時代。「頴娃にいる間はどこに行っても、1人の人間ではなく、あの家の娘として見られていました」と、当時をふりかえりながら話してくれた、りょうこさん。

そんな生きづらさは次第に変化して「自分のことを知らない人たちの中で生活したい」と考えるようになり、中学校を卒業すると同時に町外の高校に進学。3年間、寮生活を送りました。

「自分でお店をやっちゃえばいいんじゃない?」

地元に対する居心地の悪さから一度は町外に出る選択をしたものの、小学校4〜5年生ぐらいの頃には数ある夢の1つとして「両親の作った農作物を、料理やおやつに変えて販売したい」という夢を描いていたそうです。

その思いは進路決定の際の指針になったようで、高校を卒業した後は食について学ぶために、栄養士の資格が取れる短大に進学しました。

 

りょうこさん:
短大時代は、さまざまな実習やインターンに積極的に参加しました。その中で栄養士という仕事を目の当たりにした時に「数字だけで料理を作る仕事は、自分には向かないかもしれない」と思ったんですよね。

そこで、栄養士以外で食に関わる仕事って何があるかな?と考えた時に「自分でお店をやっちゃえばいいんじゃない?」ってアイデアが湧いてきて。

とはいえ短大を卒業してすぐにお店をはじめることはせず、まずはお店をはじめる際に必要なスキルの1つである接客を学ぶために、県内の老舗和菓子屋さんに就職しました。

 

りょうこさん:
比較的、忙しい店舗で働かせてもらって色々と学ぶことができました。けれど最終的には「人が作ったお菓子ではなく、自分で作ったおやつを売ってみたい」という気持ちを抑えられなくなって、2年半ほど働いた後に退職しました。

そして退職から1ヶ月後の2010年9月に、実家にあった建物の一角を使って、野菜菓工房 楓fu- を開業しました。

両親にめちゃめちゃ反対された、楓fu- のはじまり

編集部:
お店をはじめたいと伝えた時の、ご両親の反応はどんな感じでしたか?

 

りょうこさん:
めちゃめちゃ反対されました。会社に辞表を出してきたと母に伝えた時は「取り消してもらいなさい!」と鉄槌が降ってくるほどでした。楓fu- をはじめてからの最初の5年ぐらいは、わたし自身、仕事なのか趣味なのか。どっちつかずの状態でやっていたこともあって、その間は母とものすごく喧嘩をしました。

 

編集部:
その時のお父さんは、どんな感じだったんですか?

 

りょうこさん:
母がヒートアップしている分、わたしに対しては静かに接してくれていましたが、両親の間ではああでもない、こうでもないと話し合いが行われていたようです。

意外にも両親からは反対されていた、楓fu- のはじまり。

編集部としては、なぜそんなに反対を?と思いましたが、りょうこさんのご両親は、頴娃で有機栽培という新しいことをはじめた経験を持っています。

りょうこさんと楓fu- の挑戦は、形は違えど頴娃で新しいことをはじめるという点では同じです。

ご両親自身、新しい何かをはじめる時の難しさや辛さを人一倍知っているからこそ「そこまでがんばれるの?」「一生の仕事にしていけるの?」という態度を取っていたのかもしれません。

 

りょうこさん:
両親からは猛反対されていましたけど、わたしとしては「できないわけがない!」と変な自信を持っていたんですよね。幼い頃から両親の背中を見ていたから、辛いことがあるのは重々承知していました。でも両親は両親でなんとか乗り越えてやっているじゃない、と。だから、わたしはわたしで多分やれるはずだ、と信じてましたね。

製菓の専門学校に通ったわけでも、飲食店やパティスリーで経験を積んだわけでもない。当時のわたしが持っていたのは栄養士の資格と、前職での2年半の接客経験のみ。

それでも、未来を信じる気持ちが萎むことはなかったです。

編集部:
両親にトコトン反対されている現実がある中で、頴娃以外の土地でお店をやろうと思ったことはなかったんですか?

 

りょうこさん:
頴娃以外で暮らしながら自宅の家賃を払って、お店の家賃を払って。その上で材料費やそれ以外の経費を払っていくと考えると、鹿児島市や他の都会では到底不可能でした。

この土地で根を張って仕事をしてくれている両親がいたからこそ、わたしは自分のやりたいことを宣言できたし、形にしていけたんだと思います。頴娃以外ではじめていたら、きっと今の未来には到達できていなかったです。

カチカチのお堅い仕事から、約900坪の畑の農園主へ

りょうこさんに続いて、次はしんじさんについて。

これまでほとんど知らなかった頴娃にやってくる前の経歴や、自身が農園主を努めるりんふぁ〜むについて教えてもらいました。

 

しんじさん:
僕自身は佐賀県の出身で、以前は護岸工事や砂防管理など、土木関係のお堅い仕事をしていました。その中で桜島の担当になり、鹿児島で暮らしはじめました。

35歳の時には、それまでの仕事から大きく方向転換をして、スキューバダイビングで食べていこうと考え、プロテストを受けました。最初の試験に見事合格するものの、海に潜る際に内臓に気持ち悪さを感じるようになり、病院を受診。すると、胃が食道の方に少し出ているようで、食道裂孔ヘルニアと診断されました。

しんじさん:
症状としては、胸焼けをしているような感じですね。日常生活には問題なかったんですけど、ダイビングの場合は潜った時に水圧がかかります。それが内臓に影響するので、1日に何回も海に潜る仕事は難しいかな、と。今でもスキューバダイビング自体は趣味として続けているんですけど、仕事にするのは見送ることにしました。

 

その後は、自然に関わる仕事がしたいという理想と、前職のような大きな組織の仕事ではなく、若い会社で働きたいという希望の2点を軸に求人を探しました。

 

しんじさん:
そこで農業法人を見つけて、そこの畑が頴娃にあるということで頴娃にやってきました。頴娃にやってきたのは本当にたまたまで、流れに身を任せていたら辿り着いた感じです。文字通り全くの畑違いの仕事で、はじめての農業だったので不思議に思うことや疑問がたくさんありました。けれど働いているうちに、段々と農業を取り巻く仕組みがわかるようになっていきました。

 

36歳で農業の道に進み、はじめは右も左もわからない状態だったそうですが、実際に畑で体を動かすことで見えてきたものがあったそうです。

とはいえ、農業のやり方は十人十色。所変われば品変わるということで、ある時から全国の農家さんを巡る「農業行脚」に出かけるようになりました。

ご縁ができた農家さんの元を訪ねながら作物の育て方だけでなく、加工や販売方法まで。自分の足で一歩ずつ、農業のイロハを学んでいきました。これまでにお話を伺った農家さんは九州、東海、近畿など全国30ヶ所以上。すごい行動力です。

 

しんじさん:
しばらくしてから自分でも畑を借りて、文字通り鍬(くわ)1本で畑を耕すところからはじめました。農業をやってて気づいたんですけど、僕自身、農薬の臭いがダメみたいで、気持ち悪くなってしまうんですよね。

だから自分の畑では農薬を使わずに野菜を育てようと決めました。人工的な肥料も、なるべく使わないようにしています。

そうして、2018年1月に独立し、りんふぁ〜むを開園。現在は大小合わせて10ヶ所。約3反(900坪)の畑を管理しているそうです。

りんふぁ〜むという少し変わった名前には、

・作物が「鈴」なりに実るように
・「リン」と鈴を鳴らすと人が集まる畑になるように
・自分の育てた野菜に自信を持ち「凛」とした姿勢で畑の作業にも、お客様にも出会いたい

といった3つの思いが込められています。

自分の畑を持つようになってからも、しんじさんの農業行脚は続いています。

正解がない農業の世界と、しんじさんが持つ底なしの探究心。2つがかけ合わさった、りんふぁ〜むならではの作物の味を、頴娃にお越しの際はぜひお楽しみください。

自然に近い暮らしを楽しむ2人

そんな自然に近い暮らしを楽しむ2人は、しんじさんが楓fu- を訪れたことをきっかけに巡り会いました。なんと初対面ながら、あれやこれやとその場で2時間以上話し込んだそうです。

そして、2018年9月に入籍。

畑で採れた農作物をお惣菜やおやつに変えて販売する、りょうこさん。
約3反(900坪)の畑を管理し、農薬を使わずに作物を育てている、しんじさん。

野菜菓工房 楓fu- 、りんふぁ〜む共々、日々、様々なアイデアが浮かんでいるようで、これからまた少しずつ形になっていくようです。

無理せず、きばりすぎない範囲での自給自足を楽しむ2人の話を聞いていると、なんだかジワジワとエネルギーが溜まっていくような。

2人が自然からもらっている温かいエネルギーを、お裾分けしてもらったような気持ちになりました。

あの頃の自分に語りかけるとしたら?

編集部:
さいごに、今を生きる2人から「あの頃の自分に語りかけるとしたら」どんな言葉が思い浮かびますか?

 

しんじさん:
前の仕事を辞めて、スキューバダイビングがだめになった後の自分ですかね。それまでは、どこか世間体を気にしていて「こういう形でないとダメだろうな」と自分が描いた枠から外れることができなかったように思います。

でも結果的には、色々なご縁が回って今の形になっていて。少しずつありのままの姿になってきているような気がします。だから、あの頃の自分に語りかけるとしたら「ありのままで生きていってもいいんじゃない?」です。

色んな苦労や悲しみを積み重ねた今だからこそ、そんな風に思えますね。もう一度同じ人生を歩くのは嫌だけど、歩んできた道は必要なことだったのかな、と。

 

りょうこさん:
わたしの場合は、全体を通して言えることだけど「ちゃんと後ろをふりかえりながら歩くんだよ」ですね。

前ばかり見ないで、時々は後ろをふりかえって「自分はこういう段階を踏んだよな」とか「人の気持ちを汲み取れていたかな?」とか「旦那さんを置いてけぼりにしてないよね?」とか。そういうことを考えながら、歩いていきなよ〜、と。

わたし自身は、わりと勢いよく飛び出すタイプなんですけど、実は物事が終わる時のことも結構考えていて。「自分がお店をやらなくなったらどうなるかな?」「後に残るものってあるかしら?」とか。

結婚してからは2人になったので、考える幅は倍になりました。例えば「夫婦の1人が欠けたらどうする?」とか「2人共いなくなったら?」とか。

あの頃の自分にも、これからの自分にも伝えたいことは同じで、前を向いて進むことを選ぶんだったら時々は後ろをふりかえって「最後はどういう風に終えるのか」を考えて進みなよ〜、と。

すぐに見つかるものではないだろうけど、頭の片隅に入れ続けておいてね、と。

 

関連リンク

野菜菓工房 楓fu-

りんふぁ〜む

FU-andりん

毎日たくさんのお野菜を用意しているそうです!HPより写真参照

かざり

かざり

2019年に移住。2023年1月まで南九州市頴娃町の地域おこし協力隊として活動し、卒業後も同じ町で過ごしています。ライターや広報の仕事をしながら、地域でも活動中。好きなドリンクは、赤いコーラです。