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築95年の古民家で、グラノーラと焼き菓子のお店を経営している企み上手なあっこさんのえい会話|Ei Talk – EIGO|エイゴー

頴娃(えい)に行ってみたくなる景色を提案する。頴娃の魅力を記録するをコンセプトに、EIGO編集部が、鹿児島県頴娃(えい)町で暮らす人々を訪ねて質問を重ねる「Ei Talk/えい会話」

3人目のゲストは、グラノーラと焼き菓子のお店 Le plan de AK(ル・プロンド・アーカー)を経営している、あっこさんです。

あっこさんのご紹介(プロフィール)

桑原 亜希子:あっこさん
1982年 頴娃町生まれ。地元の中学を卒業した後は、隣町の枕崎にある高校に進学。高校卒業後は、福岡県の専門学校に進学し、インテリアデザインについて学ぶ。卒業後は、同じく福岡県のインテリアショップで数年ほど働き、鹿児島県へUターン。「いつか自分のお店を作ろう」という考えを胸に、コーヒーショップや料理教室、シフォンケーキ屋さんなど、さまざまなお店で経験を積んだ。2016年に地元の頴娃町にて、フランス語で私の企みごとを意味する、Le plan de AK(ル・プロンド・アーカー)を開業。グラノーラや焼き菓子の製造・販売を中心に、最近は、人や環境にやさしい生活用品の仕入れ・販売も行っている。

暴れまくっていた、幼少期

南九州市頴娃町で、3姉弟の長女として生まれた、あっこさん。

小・中学校時代は、自他ともに認める暴れ馬だったようで、おままごとよりも男子と一緒に外で缶蹴りをしたり、時にはケンカをしたりして過ごしました。

 

あっこさん:
小学校2〜3年生ごろに、柔道部に入りました。入った理由は、年上の友達が多かったり、父が柔道をしていた影響もあったけど、1番の目的は保護者からの差し入れでしたね。その他にも習字やピアノ、吹奏楽などもやっていました。

あっこさん:
中学校の時は自分もそうだけど、田舎の暴れというか、全体的にやんちゃな子が多かったです。漁船をひっくり返したり、木の電柱を切り倒したり。学校の裏庭で見つけた防空壕みたいなところを掘り続けて先生に止められたり(通称:もぐら事件)、教室の入り口に黒板消しを仕掛けるイタズラをしてみたりと、学年全体がとにかくやんちゃでした。

福岡にあるインテリアの学校へ進学

地元の中学校を卒業した後は、お隣の枕崎にある高校に進学。やんちゃだった小・中学校時代と比べると、穏やかな高校生活を過ごしました。

 

あっこさん:
一時は弓道部に入りましたが、先輩たちと笑いのツボが合わずにやめましたね。その後は部活には入らず帰宅部として過ごしつつも、小学校から習っていたピアノは続けていました。

 

高校を卒業した後は、インテリアデザインについて学ぶために、福岡の専門学校に進学します。

 

あっこさん:
お父さんが一級建築士で、幼い頃から図面を見たり、建築現場に連れて行ってもらったりして「ここから家が建つんだ」と、幼心にワクワクしたのを覚えています。私自身、インテリアの雑誌を読んだり、物を見たりするのも好きだったので、インテリア関係の仕事っていいな、と。

 

編集部:
福岡の学校を選んだ理由は、インテリアについて学びたい気持ちの他に、地元を出たい思いもありましたか?

 

あっこさん:
それは別になかったかな。当時、インテリアについて学べる学校が鹿児島になくて、福岡に学校を見つけて、という流れだったと思います。

20代前半を福岡で過ごした後に、鹿児島へ

18歳で福岡に引っ越し、専門学校に入学。卒業した後は、同じく福岡にあるインテリアショップで、1年ほど働きました。

 

あっこさん:
インテリアショップで働いていた頃は、周りがお姉さんばかりで、いろんなところに連れて行ってもらいましたね。あの頃の福岡はカフェブームで、お洒落なお店がたくさんあって。専門学校を卒業した時点で「将来は鹿児島で、自分のお店を作ろう」と考えていたので、こういうお洒落なところって鹿児島にはないな。ないなら自分で作ってしまえ、と思っていました。

あっこさん:
そんな中で鹿児島に帰ってきて「自分で飲食店をやるんだったら、まずはコーヒーを勉強しよう」ということで、当時、天文館(鹿児島で1番の繁華街)で唯一エスプレッソが飲めたコーヒーショップで働きはじめました。それと同時に、料理教室やシフォンケーキ屋さん、パン屋さんやギャラリーのあるカフェでも働いていました。1番忙しい時は、朝はパン屋さんで働いて、昼は料理教室。夜はコーヒーショップで深夜まで、という日もありました。

 

編集部:
時間的にも体力的にもかなり大変そうですが、あっこさんとしては会社員よりも、そういった働き方のほうが良かったんですか?

 

あっこさん:
そうそう。やりたいことをやれているし、なにより楽しい。いわゆる安定と呼べるものはないかもしれないけれど、いつか自分でお店を作る時に、やってきた経験は無駄にならないと思っていたので。

あっこさん:
今もそうだけど、自分がやりたいと思ったことは、全部やりたくて。元々働くのが好きで、あまり休みもいらないと思っていたので、会社に勤めるよりは、ある程度自分の意思で働く時間を決められるアルバイト的な働き方が合っていました。私自身が物事をわりと器用にこなせるタイプだったこともあり、アルバイトだけど社員の会議にも出席するような、アルバイトの枠を超えた仕事も多かったです。

 

さまざまな仕事をかけもちする中で、ケーキづくりの先生やパティシエの友人が増え、あっこさん自身もお菓子を作るようになっていきました。この経験が、約10年後に開業するLe plan de AKの手づくりグラノーラや焼き菓子に繋がっていきます。

そんな風に自分の興味がわいたお店で働きまくる生活を、鹿児島で5〜6年ほど続けた後は、刺激と学びを求めて、再び福岡へ。

 

あっこさん:
鹿児島で5〜6年ほど過ごしている間に「なんかつまらないな」と物足りなさを感じるようになって、28歳頃から再び福岡で暮らしはじめました。1から仕事を探すのは時間がもったいなかったので、支店のあるコーヒーショップや料理教室の仕事は引き継がせてもらって、福岡でも続けました。

 

編集部:
20代後半で再び福岡に出た時の、あっこさんの心境ってどんな感じでしたか?

 

あっこさん:
自分の中で、学びへの欲求がすごく高まっていた時期でした。今もそうですけど、私の場合は「これについて学びたい!勉強したい!」ってことが生まれたら外に情報を取りに行くんですよね。このまま鹿児島で暮らし続けても、自分が欲しい学びは得られないような気がして、もう1度福岡に出ました。

Le plan de AKの原点となった、2度目の福岡生活

あっこさん:
2度目の福岡生活では、積極的にお菓子づくりの知識や経験を深めていきました。時には、大阪や東京の教室に通うこともありましたね。元々、お菓子づくりや料理をすることは好きで、学生時代も趣味としてやってはいたけれど、その時は仕事にしようとは思っていなくて。製菓学校を出ていない分、お菓子づくりの知識や経験は、働きながら身につけていきました。

 

鹿児島で暮らしていた時と同様に、複数の仕事をかけもちしながら、着々とお菓子づくりのプロへと近づいていく日々の中で、とある変化が訪れます。

 

あっこさん:
福岡で暮らしはじめて2年ほど経った頃に、友人から「グラノーラを作っている人が、お店で働いてくれる人を探してるけど、どう?」と紹介されました。子どもの頃からグラノーラやコーンフレークが好きで、棚にパッケージが並んでいるとテンションが上がるような性格だったので、二つ返事で引き受けましたね。

 

FRUCTUS(以下:フラクタス)という名前のお店では、正社員として採用されました。あっこさん自身、グラノーラ自体は好んで食べていたものの、手づくりのグラノーラを食べたのは、その時がはじめてだったようです。

 

あっこさん:
「うわあ、おいしい」「今まで食べていたグラノーラと、こんなに違うんだ」と感動しました。2年ほどフラクタスで働く中で、グラノーラを作る楽しさや新商品の開発方法を教えてもらい、イベント出店も経験しました。

いよいよ、Le plan de AKの物語がはじまる

福岡で30歳を迎え、数年が過ぎ「いつか自分のお店を作りたい」という思いは変わらず持ち続けていたものの、そのいつかは一体いつ来るんだ? と自分に問いかけ、いよいよ頴娃町に戻ることを決意します。

 

あっこさん:
2015年には独立しようと決めて、それからの行動は早かったです。お店に自分の気持ちを伝えて、鹿児島に帰ります! と。

 

編集部:
自分のお店を作るために、とうとう頴娃町に戻るわけですが、そもそも開業場所として頴娃町を選んだ理由は何ですか?

 

あっこさん:
せっかくだったら、自分が育った町でやりたいと思っていました。それと、頴娃町に自分が求めるお店がなかったのも大きかったかな。ないからこそ、いろんな人がワクワクできるようなお店を自分で作ろうと思って、頴娃町を選びました。

 

頴娃町に戻った後は、空き家だった築95年の祖父母宅を改修。両親の協力を仰ぎながら、店舗として使える状態に整えました。

そして、2016年12月7日に、Le plan de AKを開業します。

ローカルでお店を構えることについて、考えていたこと

編集部:
ローカルでお店を構えることに対して、不安や心配はなかったですか?

 

あっこさん:
例えば、どこかいきたい場所があった時に、私の場合はなんとかして行くんですよね。だから、頴娃町ではじめるお店が、誰かにとって行きたいと思える場所だったら、きっと足を運んでくれるだろうという自信がありました。今思えば、けっこう強気ですよね。でも、自分の場合は行きたければ行くから。お客さんの中にもそういう人はいるだろうな、と。

 

編集部:
生まれ育った町でお店をはじめる時に、地元に対する期待感や求めたことなど、ありますか?

 

あっこさん:
地元の人に期待したとかは、ないかな。「地元のためにやってます」と主張しても、町の人には響かないってわかっているから。今年でお店をはじめて5年目だけど、お客さんとして足を運んでくれるのは、町外の人の方が多いです。

あっこさん:
何かをやっていることを地元に示し続けるのは大事だけど、すぐに理解してもらう必要はないと思っていて。1年なのか、5年なのか、10年なのかわからないけれど、もっと時が経った時に伝わればいいのかな、と。自分がやっていたことが、めぐりめぐって地元のためになればいいとは思うけど、地元のためにアレをしたい。コレをやんなきゃっていう気持ちは一切ないですね。

店名の由来は「桑原 亜希子の企みごと」

編集部:
店名のLe plan de AKに込めた思いや、理由について教えてください。

 

あっこさん:
店名を一緒に考えてくれた友人がフランス語が堪能で「本名の桑原を英語で表すと、どうなる?」からアイデアを出しあって「マルベリーフィールド?ちょっとダサくない?」とか。

他には、思いついた言葉を英語やフランス語で言い変えてみたり。そうやって話している内に、「計画とか企むって、フランス語だと、どう言うの?」と閃いて、「ル・プロンド〜で、◯◯を計画するって意味だよ」と教えてもらって。

じゃあ、私の企みや計画みたいな意味になればいいな、と思って、桑原 亜希子のイニシャル AKを使うことにしました。英語で読むと、エーケーだけど、そこはフランス語読みで、アーカーにしようと。

編集部:
紆余曲折あったんですね。

 

あっこさん:
そうそう。自分自身、いろんなことを企みながらワクワクし続けたいし、そういう思いを持った人が世の中にもっと増えたらいいな、という思いを込めて、Le plan de AK(ル・プロンド・アーカー)と名付けました。

 

編集部:
フランスに対する憧れが、すごくあったんですね。

 

あっこさん:
名前を考えていた時は行ったことはなかったんだけど、一時期フランス語を習っていたほど、本当に憧れていて。いつかは行きたいな、と思いながら、念願叶って3年ぐらい前に行けました。

あの頃の自分に語りかけるとしたら?

編集部:
さいごに、今を生きるあっこさんから、大変だった頃の自分に向けてメッセージをお願いします。

 

あっこさん:
1番大変だったのは、開業して1〜2年ぐらいの頃かな。内側の人について、すごく考えた時期で「自分の思っていることって、どうやったら伝わるんだろう?」とか「どうやって人を育てていったらいいんだろう?」と悩んでいました。

スタッフと揉めたこともあって、その時は福岡の信頼できる経営者の友人に相談して「どう伝えたらいいんだろう」と予行練習しましたね。その中で経営者としてやっていくには、言いたくないことも言わないといけないんだな、と学ベて、今は大分強くなりました。

 

編集部:
その頃の自分に向けて語りかけるとしたら、どんな言葉が思い浮かびますか?

 

あっこさん:
なんだろうな。「よくやってるよ」かな。

「大変な時でも、自分なりによくやってたんじゃない?」って。あの頃がんばってくれた自分のおかげで、今の自分がいるわけだから。

個人でやっている人は特にそうだけど、自分のことは自分で褒めてあげないと、褒めてくれる人がいないからね。ゴタゴタっとした時期も確かにあったけれど、今では感謝しています。

関連リンク

Le plan de AK|ル プロンド アーカー

かざり

かざり

2019年に移住。2023年1月まで南九州市頴娃町の地域おこし協力隊として活動し、卒業後も同じ町で過ごしています。ライターや広報の仕事をしながら、地域でも活動中。好きなドリンクは、赤いコーラです。