頴娃(えい)に行ってみたくなる景色を提案する。頴娃の魅力を記録するをコンセプトに、EIGO編集部が、鹿児島県頴娃(えい)町で暮らす人々を訪ねて質問を重ねる「Ei Talk/えい会話」

5組目のゲストは、加藤潤さん・紳さん兄弟です。

潤さんと紳さんのご紹介(プロフィール)

加藤 潤さん:じゅんさん(下の写真右)
1968年 横浜に生まれ埼玉育ち。高校卒業後は、経営学部に進学。卒業後は外資系の大手企業に就職。退職後は語学留学のために、一時海外へ。帰国後は10年ほど会社員として働いた後に退職し、41歳の時に家族と共に鹿児島県 南九州市頴娃町へ移住。現在はNPO法人頴娃おこそ会で理事を努める傍ら、空き家再生活動や各地での講演など、様々な活動を展開している。2児の父。

加藤 紳さん:しんさん(下の写真左)
1971年 横浜生まれ埼玉育ち。海が好きな子ども時代を過ごす。高校進学後は水産学部がある大学に進学。卒業後は海の調査会社に就職し、全国の海を巡りながら生き物や水質の調査をする生活を送った。その後ニュージーランドで海の保護を、オーストラリアでタツノオトシゴの養殖について学んだ。帰国後は大学院に入学。以降は鹿児島に移住し、2008年にシーホーウェイズ株式会社を起業。2児の父。

これまであまり語られていなかった兄弟の関係性

NPO法人頴娃おこそ会で空き家再生プロジェクトのリーダーを務め、最近ではコミュニティ大工として各地を巡っている加藤潤さん。

そして南九州市頴娃町にある番所鼻自然公園で、日本で唯一のタツノオトシゴの観光養殖施設 タツノオトシゴハウスを経営している加藤紳さん。

これまで幾度となくメディアに出演している2人ですが「兄弟そろって表に出る機会って意外と少ないのでは?」ということで、Ei Talk/えい会話で取材させてもらいました。

タツノオトシゴハウスで2時間ほどインタビューを…と思いきや、なぜか途中で兄弟の相撲対決がはじまるという…これまでにない取材でした。

(加藤兄弟の相撲対決については、後日公開予定の動画をお楽しみに)

突然の兄弟相撲に戸惑いを感じたものの、個人的(ライティング担当:かざり)には、わたし達EIGO編集部と加藤兄弟の距離感がよくわかる良い記事になったのでは?と思っています。

潤さん「学生時代の旅の思い出が消えなかった」

横浜で生まれ、埼玉で育った潤さん。若い頃はスポーツ三昧の日々を送り、体育の先生を志していた時期もあったようです。

 

潤さん:
子どもの頃からスポーツが好きだし、得意でした。一応、埼玉の進学校に入学はしたけれど勉強はあまりしなかったです。450人いた学年の中で、370〜80番ぐらいの成績だったかな。とにかく、スポーツにのめり込んでいました。

高校時代は、バスケットボール部に所属。下から数えた方が早い成績とは反比例するように、バスケ部では埼玉県でベスト4に進出。あともう一息でインターハイというところまで勝ち進んだそうです。潤さん個人としても、地区選抜に選ばれるほどの選手だったらしく、相当な腕前だったことが伝わってきます。

 

潤さん:
そのままの流れで高校を卒業した後は、体育の先生の道に進もうと考えていました。でも当時サラリーマンをしていた親父から「体育学部に絞らないで、もっと潰しがきく一般的な学部に進んで教員免許を取ったらどう?」と提案されて、経営学部に進む道を選びました。

 

大学受験では、一浪した末に青山学院大学に合格するものの、2年間で受験した大学は16校。その内、15校は不合格。

「なぜか青山学院にだけは受かったんだよな」と苦笑いしながら、話してくれました。

 

潤さん:
上の息子が大学生で慶應に通ってるんですけど、僕自身はそこも落ちていて。そういう意味では、親の落ちた大学に受かった息子は親孝行ですよね。

 

大学入学後もバスケ部に入ろうと考えるものの、青学のバスケ部は全国でもトップクラス。部員数も相当な数だったようで、これは試合に出るのは難しいと判断し、大学からはじめてもハンデが少ないアメリカンフットボール部に入部しました。

 

潤さん:
アメフトは2年ほどやって、それ以降は旅をするようになりました。旅先で仲良くなった人と渓流釣りをしたり、カヌーに乗ったり、山を登ったり。アウトドアをすることが多かったですね。それがすごく楽しくて、次第にライフワークになっていきました。

大学を卒業した後は、外資系の大手石油会社に就職。自ら地方勤務を選択し、仙台で暮らすようになりました。社会人になってからも、仕事が休みの日にはアウトドアを楽しみ、様々な人との出会いがあったそうです。

 

潤さん:
旅先で色んな人と話す中で、色んな人生があることを知って。その頃から少しずつ「もっと自然に近いところで個人で仕事をしたい」と思うようになりました。といってもスキルもないし経験もない。どうしたら良いのかわからなくて、モヤモヤっとした気持ちを抱えていましたね。

 

そんな風に考えていた矢先に、会社で大規模なリストラが行われ、そのタイミングで退職を決意し、オーストラリアに語学留学に行きました。留学終了後は、商社で4年ほど働いた後に、DIYが好きだったこともあって、木材を扱う会社に転職。

好きな分野に関われて、海外出張にも参加できて。サラリーマンとして充実した生活を送りながらも、心の中には学生時代の旅の思い出や、仙台で感じた自然豊かな風景が浮かんでいたそうです。

 

潤さん:
モヤモヤした気持ちを抱えながら過ごしていた頃に、紳が鹿児島で起業することを決断しました。正直、ちょっと羨ましかったですね。田舎で自分のやりたいことをやっている姿を見て、僕も手伝いたいな、と。でもそんなことを言ったら、嫁さんはきっと怒るよな、と。その頃には結婚して子どももいたので、心のままに行動することはできなかったです。

そんな状況から鹿児島への移住を強く決断したきっかけは、よく晴れた7月の土日を頴娃で過ごしたことでした。東シナ海の鮮やかな青と開聞岳が見える番所鼻公園で、気持ちの良い週末を過ごしたそうです。

そして埼玉に戻り、会社へ出勤。電車の窓から見えるネズミ色の風景を見ながら「自分は後何年これを続けるんだろう?」と考え、奥さんに打ち明けることを決意します。

 

潤さん:
反対を承知で相談したけれど、奥さんからは「ここで私が反対したところで、鹿児島に行きたい気持ちは消えないでしょう」「後悔するよりは行った方が良いだろうから」という言葉が返ってきました。驚きや不安もあっただろうけど、僕の気持ちを汲んでくれたことが嬉しかったです。今でもすごく感謝しています。

 

長年抱えていた気持ちを家族に受け入れてもらったことで、奥さんと2人の息子と共に、南九州市頴娃町へ。

移住後は皆さんご存知のように、タツノオトシゴハウスの経営に携わったり、NPO法人頴娃おこそ会の理事を務めたり。

各地での空き家再生活動に関わったり、頴娃での活動を元に講演を行ったりと、一言で表すのは大変難しい、オリジナリティ溢れる働き方をしています。

紳さん「ぼくの人生に海は欠かせない」

これまであまり語られてこなかった、鹿児島にくる前の潤さんの姿を知ったところで、続いては弟の紳さんです。

潤さんの誕生から、3年後に生まれた紳さん。海が好きな子どもだったものの、埼玉県には海がなく、幼少期は沼地や川で遊んでいました。

 

紳さん:
幼少期に1番好きだったのは、ザリガニ釣りです。夢中になって空が真っ暗になるギリギリまでやっていました。それから段々魚に興味が向くようになって、部屋に水槽をいっぱい置いて淡水性の熱帯魚を飼ったこともありました。高校ではカヌーをするようになって「水はいいな」としみじみ思いましたね。ぼくの人生に海は欠かせません。

海好きの熱は冷めることなく、高校卒業後は水産学部がある大学に進学。キャンパスライフは岩手県の海辺で過ごしたそうです。卒業後は、海の調査会社に就職。日本中の海を回りながら、生き物や水質の調査を行いました。

 

紳さん:
日本中の海を調査する中で漁師さんといった海で働く人たちと話をする機会があったんですけど、そこでよく耳にしていたのが「昔の海は豊かだったけど、今は少し元気がない」という言葉でした。会社としても海の豊かさを取り戻そうと、魚が暮らしやすくなるように魚礁みたいなものを入れたりとか、稚魚を放流して追跡したりとか色んな改善案を考えて実行するんですけど、決定的な方法は見つからなくて…。

 

そうやって海の環境改善の方法を模索する中で、ニュージーランドに広大な海洋保護区があることを発見します。そのエリアでは、漁業はもちろん釣りも禁止。砂浜に落ちている貝殻を拾って持ち帰るのも禁止。いわゆる昔の海を取り戻すために、徹底的に海を放置する試みが行われていました。

その実験を知った紳さんは、自分の体で体感しようと会社を退職。ニュージーランドへ向かいます。

 

紳さん:
ニュージーランドでの体験は、本当に素晴らしかったです。海の底力を感じたというか、こんな風にしたら日本の海も昔のような豊かさを取り戻せるのかも、と希望を持ちました。とはいえ、ニュージーランドの事例を今すぐ日本でできるか?というと、それは難しい。じゃあ、自分には何ができるだろう?と考えていたある日、海の中で出会ったんですよね。きれいで大きなタツノオトシゴに。

 

「それ以前にも見たことはあったはずなのに、そのタツノオトシゴにはとても魅了された」と話す紳さん。その後タツノオトシゴについて調べたところ、ワシントン条約で保護の対象にされていると知ります。

紳さん:
タツノオトシゴを取り巻く問題を知った時に「この生き物を自分が養殖することで救えないかな?」と思ったんですよね。養殖自体は会社にいた時に関わっていた分野だったので、自分にもできるんじゃないかな?と。

 

そうしてタツノオトシゴの養殖について学ぶために、ニュージーランドからお隣のオーストラリアに移動し、3ヶ月ほど滞在。帰国後は大学院に入学し、さらに学びを深めました。その後タツノオトシゴの養殖には温かい海が適しているということで、鹿児島に移住。

2008年にシーホーウェイズ株式会社を起業。会社設立の際には、お兄さんである潤さんのサポートがあったそうです。

2010年からはタツノオトシゴの養殖だけでなく、観光業にも力を入れています。

 

編集部:
一般的に水族館などを見学する際は入場料が必要になりますが、タツノオトシゴハウスでは入場料をもらっていませんよね。何か理由があるんですか?

 

紳さん:
入場料をいただかないのは大人だけでなく、地域の子ども達にとっても身近な存在になれたら良いなと思っているからですね。

ぼくのやりたいことは「タツノオトシゴを通じて海洋保護のメッセージを発信すること」なので、まずは気軽に足を運んでもらってタツノオトシゴの魅力を感じて欲しい。

そうして少しずつ、タツノオトシゴが暮らす海や自然にも意識を向けてもらって、海に対する親しみというか、優しい気持ちというか。自然を大切に思う人の輪を広げることで、海の豊かな環境を守っていきたいと考えています。

興味の幅が広い兄と、芯が強い自然体な弟

編集部:
潤さんから見て、紳さんのおもしろい一面を教えてください。

 

潤さん:
紳がおもしろいのは、あまりこだわりがないところかな。車もずっと僕のお下がりを使ってたよね。学生時代に乗ってた椅子が外れかかったような10数年落ちのジェミニから、営業車に使っていたシビックに、家族用のエスティマまで。

全部で4台ぐらいは紳にあげたんじゃないかな。

 

紳さん:
そうだね。全然自立してなかった。

編集部:
その時の紳さんの気持ちって、どんな感じだったんですか?

 

紳さん:
車に関しては、乗れれば良いみたいなところがあったかもしれないね。それよりはダイビングにお金をかけようとか、そういう感じでした。

 

潤さん:
紳はほんと自然体だよね。車とか自分の持ち物で自己主張しないというか。自然体だからこそ、すごく芯が強い。全然ブレないよね。

子どもの頃から海や生き物が好きだし、1度決めたことはやり通すしね。タツノオトシゴに関しても、この先経営が行き詰まったとしても、1人で育てるって決めてるもんね。1つのことを追求し続ける、僕にはない強さがありますよ。

僕はどちらかというと、あちらこちらと興味が揺れ動くタイプだから。

編集部:
2人って、仲が良いですよね。

 

潤さん:
う〜ん、別に仲良くはないんじゃない。

 

紳さん:
喧嘩もいっぱいするよね。

 

兄弟という関係性から、昔はついつい兄貴面をしてしまっていた、と話す潤さん。

しかし「事業をはじめたのは紳だから」と一緒に過ごす中で、少しずつ接し方も変わってきたようです。

対して「ぼくはマイペースなところがあるから、はたから見たらイライラすることもあると思う」と自己をふりかえる紳さん。

とはいえ「兄弟だからこそ本音で言い合えるし、そこの気楽さに救われている部分も大きい」と話してくれました。

あの頃の自分に語りかけるとしたら?

編集部:
さいごに、今を生きる2人から「あの頃の自分に語りかけるとしたら」どんな言葉が思い浮かびますか?

 

紳さん:
タツノオトシゴの養殖に関する技術的な失敗とか、物事を進めていく中で山ほどの失敗を経験してきたけれど、その積み重ねが今ですもんね。失敗の渦中にいる時は大変だけど、逆にあの時に成功していたら今がないのかな、とか。

 

編集部:
紳さんの今の生活を一言で表すと、どんな言葉が浮かびますか?

 

紳さん:
幸せですね。だから過去の自分に語りかけるとしたら「人生って楽しいよ」って感じかな。兄さんはどう?

 

潤さん:
そうだなあ。まず鹿児島にくる前の自分に対しては「持っているものを捨てると楽になるよ」かな。新卒で大企業に入って他の人から見たら、順調な人生ではあったと思う。でも自分としては、そんな状況に違和感を抱いていて。

「辞めた方がいいよな」と本音で考える自分と「でもこんな会社二度と入れないよな。結婚もしてるしな」と二の足を踏む自分が、ああでもないこうでもないと日々悶々としていましたね。

会社を辞めるのは不安だったけど、手放してみたらなんとかなった。だから鹿児島に来る前の自分に対しては「悩んだら踏み出しちゃおうよ」と伝えたいですね。

編集部:
鹿児島に移住してからの生活はどうですか?

 

潤さん:
もちろん辛いこともあったけれど、ちょっと我慢して会社で働いていた頃と比べると、今の方がはるかに良いかな。色々考えて決断して、納得した上での鹿児島暮らしだから楽しいことの方が多い気がします。

あえて言うなら、移住して地域という目に見えにくいものと接するようになってからの戸惑いはいっぱいありました。例えば自分が良かれと思ってした行動に対して、周囲から思わぬ言葉をかけられた時とか。地域をフィールドに活動している人はみんな経験していると思うけど、あれは辛いですよね。

 

編集部:
その頃の辛かった自分に対して、今の潤さんならどんな風に声をかけますか?

 

潤さん:
悩んでいる時は、それがとんでもなく大きな問題に見えてしまうので「そんなもんだよな」と外からの目線で言ってあげることで、気楽になってもらいたいですね。

あとは自分でも気付かないうちに抱え込んでしまっているから、一緒に活動している仲間とか、他の地域で似たような経験をしている人に話してみてほしい。それで乗り越え方がわかったり、対処の仕方が見えてきたりするから。

 

関連リンク

観光養殖場タツノオトシゴハウス

かざり

かざり

2019年に移住。2023年1月まで南九州市頴娃町の地域おこし協力隊として活動し、卒業後も同じ町で過ごしています。ライターや広報の仕事をしながら、地域でも活動中。好きなドリンクは、赤いコーラです。