頴娃(えい)に行ってみたくなる景色を提案する。頴娃の魅力を記録するをコンセプトに、EIGO編集部が、鹿児島県頴娃(えい)町で暮らす人々を訪ねて質問を重ねる「Ei Talk/えい会話」
いよいよ最後のゲストは、ヨガインストラクターのゆいさんです。
上村ゆいさんのご紹介(プロフィール)
上村ゆいさん:ゆいさん
1984年 鹿児島市生まれ。中学卒業後は獣医を目指し理数科に進学するも、高校卒業後は心理学の道へ。県内の大学に進学し、社会福祉士と精神保健福祉士の国家資格を取得。卒業後は2年ほど精神科に勤務した後、転職。飲食店のアルバイトや化粧品販売、農業生産法人での勤務を経験し、2017年からヨガのインストラクターとして活動を始める。2019年からは南九州市頴娃町に移住し、古民家ヨガ教室「息ぬきの場〜月下美人〜」をオープン。少人数レッスンを主体とし、時には出張ヨガに出かけることも。美容と健康に関心が高く、農業女子の一面も持つ。動物好き。

体が弱かった幼少期と獣医を目指した高校時代
鹿児島市で生まれた、ゆいさん。幼少期は体が弱かったそうで、幼い頃の記憶はあまりないと話します。
ゆいさん:
小さい頃は幼稚園に丸々1ヶ月行けたことがなかったみたいです。体が弱かったのは、小学校の低学年ぐらいまでかな。それ以降は元気になって、風邪もあまりひかなくなりました。
高校では動物が好きだったことから獣医を目指し、理数科に進学。
小・中学校時代と比べると、高校時代は楽しい思い出が多いと語りますが、その分勉強は少し疎かになりました。
ゆいさん:
進路選択の時に先生から「今の成績では志望校には受からない」と言われました。それまで獣医以外の選択肢が自分の中になくて「卒業した後、何をしよう…」と考えた時に、ふと思い出したのが部活での出来事でした。
高校では吹奏楽部でフルートを吹いていて、その時の後輩がちょっと心を病みやすい子で。そしたらある日、その後輩から「ゆい先輩の言葉に救われました」と手紙をもらったことがありました。

後輩との出来事から心理学に興味が湧いたゆいさんは、心理学の道を志します。
県内の学校を調べると、鹿児島国際大学の社会福祉学科で国家資格が取れることを知り進学することに。
ボランティアに明け暮れた学生時代
ゆいさん:
大学では、ボランティアに明け暮れる日々を過ごしました。部員が100人ぐらいいるボランティアサークルに入って、老人ホームでおじいちゃんおばあちゃんとレクリエーションをやったり、児童養護施設で公文を教えたりしていました。
老人ホームでの活動は月1回程度でしたが、児童養護施設はほぼ毎日、学生が日替わりで教えに行っていました。
大学卒業時には、社会福祉士と精神保健福祉士という2つの国家試験に見事合格。
とはいえ、本人的には「暗記が苦手で受かるとは思っていなかった」そうで、ギリギリまで試験に集中。そのため、就職活動は周りと比べると手付かずの状態だったようです。
ゆいさん:
就職活動は年明けからはじめて、薩摩川内市の精神科に応募しました。
そこが中々おもしろい精神科で、無事に採用が決まって今後のことを話している時に「住む家はどうするの?」と。当時住んでいた谷山から通うのは難しかったので「今から決めます」と答えました。
すると「じゃあ、事務長が物件を持っているから今から見に行きましょう」という流れになって、なんとその日の内に住む家が決まるという。
はじめての1人暮らしが相談なしに決まって、親はビックリしていました。

精神科勤務からはじまった社会人生活
新卒で就職した精神科はスタッフも優しく、音楽療法の一環として勤務中にオルガンを習わせてもらうこともあり、音楽好きのゆいさんとしては楽しいことも多かったようです。
しかし、異動に伴って職場環境が変化。時間外業務も増えていく中で、次第に「自分は一体何をやっているのだろう」と考えるようになったと言います。
ゆいさん:
大学で資格を取って精神科での仕事にも少しずつ慣れてきて「福祉の世界でがんばっていこう」と思った矢先の異動でした。
異動先は体力的にすごくハードで精神的にも参ってしまって。あの頃は気持ち的に病んでいた部分もあったと思います。2年ほど働きましたが、最終的には「福祉以外の経験も積んでみよう」と思って退職しました。
退職後は自宅から徒歩3分の飲食店で、アルバイトを開始。
ひとまずの稼ぎを作るぐらいの気持ちで入ったものの、一緒に働くメンバーがおもしろく、あれよあれよと1年半ほど働きました。
ゆいさん:
飲食店では学生の子たちと働いていて、その子たちが卒業のタイミングで辞める姿を見て「飲食店でフリーターをしている場合ではない」と目が覚めました。

そして新たな求人を探し、見つけたのは化粧品販売のお仕事。
特にメイクが得意だったわけではないものの、初心者研修ありの文字に「これはイケる」と応募。面接には他にも10人ほどの希望者がいたものの、無事に採用されました。
ゆいさん:
大きい店舗では無かったけれど、スタッフも優しかったし、メイクを通してお客さんが喜んでいる姿を見れるのも嬉しかったです。研修や昇進試験は大変だったけれど、おもしろさを感じていました。
もがくほど腰が痛み、婦人科を受診することに
新しい環境で仕事を続けていたある日、ゆいさんの体に異変が起きます。
ゆいさん:
ある日突然、腰がめちゃめちゃ痛くなって。もがくほど痛かったけど、半月後に職場の検診が控えていたので、まあいいか、と様子見していました。数日経っても痛みが和らぐことはなく、ついに仕事中に猛烈な下腹部の痛みに襲われて。
その姿を見たチーフから「休憩中に病院に行っておいで」と声をかけられ、病院に行くことにしました。
しかし痛みの原因がわかっていないため、何科を受診するべきかもわからない状態。ひとまず総合病院に電話で症状を伝え、すすめられた婦人科を受診することに。
ゆいさん:
婦人科にはわりと軽い気持ちで行きましたね。仕事の合間の1時間休憩で足を運んでいたし、まさか大事になるとは思っていなかったので。

楽観的な予想に反して、医師から告げられたのは「手術しか道がない」という衝撃の一言。
後日MRI検査をした結果、痛みの原因は、子宮内膜症 チョコレート嚢胞(のうほう)ということがわかりました。
ゆいさん:
チョコレート嚢胞は卵巣に血が溜まる病気です。わたしの場合は、元々親指ほどの大きさの卵巣が血が溜まったことで拳ほどに膨らみ、子宮の後ろで癒着している状態でした。
医師からは「癒着を剥がすには手術しかない」「いつ破裂するかわからないし、破裂した場合は緊急手術」と言われました。どうりで痛いわけですよね。
それから入院して、自分の人生では一生縁がないと思っていた手術を受けることになりました。
「見た目をキレイにしている場合ではない」
生まれてはじめての手術を経験したことで、自分の生き方を見つめ直すことになった、ゆいさん。
ゆいさん:
当時の自分をふりかえると、とにかく食生活が悪かった。
野菜嫌いで、主な食事はジャンクフード。美容系で働いていたけど「今のわたしは見た目をキレイにしている場合ではない。体の内側からキレイにならないと」と思って、入院中に食生活アドバイザーの勉強をはじめました。
退院後は、手術前から通っていたヨガ教室の先生の紹介をきっかけに、化粧品販売の仕事を辞めて、指宿の農業生産法人で働きはじめます。
農業といってもビニールハウスの苗の管理と事務作業がメインで「そこまで大変では無さそう」という印象を持っていたそうですが、実際は想像以上にガチの農業でした。

ゆいさん:
初っ端からから畑に放り出され、収穫作業を手伝いました。「話しが違うぞ」と思ったけれど、自分なりに考えて選択した仕事だったので「春夏秋冬、1年間は経験する!」と決意して続けました。
色々大変だったけど、職場に仲が良い人ができたりして楽しかったです。農作物ができていく過程もすごく勉強になって、友人に「わたしって農業女子なんだよね」と話すこともありました。
そうして農業の世界で働いて1年ほど経った頃、ゆいさんに転機が訪れます。
ゆいさん:
通っていたヨガ教室の先生から「そろそろ教える側に立ってみたら?」と提案されました。そもそも「いずれはヨガの先生をやってみたら?」という提案がきっかけでヨガを習いはじめていて、先生としては「そろそろどうかな?」という感じだったみたいです。
編集部:
その提案を受けて、ゆいさんはどう思ったんですか?
ゆいさん:
農業も1年経験したタイミングだったから、ヨガも良いかなと思いましたね。それで2016年の10月ごろに農業生産法人を退職して、2017年の1月からヨガの先生をはじめました。
ヨガインストラクターとして苦悩する日々
ヨガインストラクターとして活動をはじめたものの、慣れないレッスンに試行錯誤する日々が続きます。
ゆいさん:
基本的には少人数で、1回のレッスンに参加する人は1〜2人ぐらいだったかな。
はじめたばかりの頃のレッスンは、月に2回ほど。ヨガだけで生計を立てるのは難しいので、2つの飲食店のアルバイトをかけもちしていました。

ゆいさん:
当時はインストラクターとしてやっていきたい気持ちはあるけれど、どうすれば良いのかわからず路頭に迷っていました。そんな時にたまたま知り合った人から、化粧品関係者向けに10人規模のレッスンを依頼されて、月に1回ヨガをできるようになりました。
1〜2人から10人規模のレッスンに変化したことで「もっと広げてみよう」視野が広がり、自分から行動を起こしていきます。
ゆいさん:
鹿児島市にあるカフェが金曜日に週替わりで教室を開く人を募集しているのを見つけて、説明会に参加しました。そこでは月に1回の頻度でヨガができることになったんですけど、問題は集客でしたね。
それまで自分から積極的に集客をしたことがなかったので、とりあえず手当たり次第にSNSで告知しました。おかげで初回は、6人ぐらいが来てくれて。
でもそれ以降は2〜3人ぐらいしか集客できない月が続いて「集客って難しい…ヨガって辛いな…」と感じていました。
2つのアルバイトと並行しながら、ヨガの先生として模索する日々。
開業して最初の年は、働く時間も収入もアルバイトの方が多かったようで「バイトのおかげで生活できた1年だった」と話します。

ゆいさん:
あの頃は価格設定もわからない状態でしたね。高すぎても人が来ないだろうと思って、金額は依頼者の要望に沿う形でやっていました。安定しない生活に「これからどうやって稼いでいけば良いんだろう」「このままアルバイトと並行かな」と悩みは尽きなかったですね。
ヨガ教室を続けられたのは、ある恩人のおかげ
ゆいさん:
開業して2年目は、地元のまちづくり団体に顔を出すようになりました。その年は色んな人と繋がることを目指して、さまざまなイベントに積極的に参加しましたね。おかげで少しずつ出張ヨガが増えてきて、2年目はちょっと忙しかったかな。
あとは、ちょうどその頃にバイト先の1つが社会保険に入れてくれることになって、バイトを1つに絞りました。その分土日祝日、ゴールデンウィーク、お盆期間は朝から晩まで働きましたけど。ヨガの活動も活発になっていた時期だったので、2年目は休みが全く無かったです。
新しい繋がりが増える中で、ある人から「鹿児島市のレンタルスペースでヨガのイベントをやろうと思うんだけど、ゆいちゃんやらない?」と声をかけられます。
ゆいさん:
「集客はこちらがやるから」とも言ってもらって、え、そんなことありますか…とありがたかったです。とはいえ、自分のヨガに自信が無くて「申し込む人なんているのかな…」と心配もありました。
ヨガイベントは、ひとまず3回。ある程度広さがあったため、10名を定員に集客という運びになりました。場所を提供されて、集客も任せられる。ゆいさんにとっては、またとないチャンスのはず。
ところが内心では「わたしのヨガにそんなに人が集まるわけがない」と後ろ向きな気持ちが強かったようです。
さて、当日の会場にはどれぐらいの人が集まったのでしょうか。

ゆいさん:
蓋を開けてみたら、当日は満員御礼でした。自分の集客ではないけれど、その時にはじめて「自分のヨガにこんなに人が集まってくれた!」と実感することができました。
同時に「どうしてこんなに人を集められたんだろう?」と、企画してくれた人の行動を観察すると、当日の感想をもらったり、事前の連絡を欠かさなかったりと、すごく丁寧なコミュニケーションを取っていて。その姿に「ここまでやるのか!」と、それまでの自分の至らなさに気づくことができました。
予定していた3回のヨガイベントは、その後も人が集まり、無事終了。そこでゆいさんは自分自身にある問いかけをします。
それは「今度もそのスペースでヨガをやり続けるか?」ということ。スペースのレンタル料は、1回5,000円です。
ゆいさん:
自分の集客で5,000円のレンタル料を賄えるだろうか?と不安はあったけど、このまま集客に対して苦手意識を持っていても何も変わらない。幸い、3回のヨガでもらった感想は好意的なものが多かったので「最悪の場合、自腹を切ってもいいや」と、4回目以降も続けることを決意しました。
勇気を出して続けることを決意。結果的には、1度参加した人が継続して足を運んでくれたり、SNS経由で新規のお客さんが来てくれたり、と心配していたレンタル料が赤字になることはありませんでした。
ゆいさん:
そのスペースは今はもう閉まったんですけど、そこでの経験のおかげで「わたしって、やれば出来るじゃん!」と自信がつきました。ヨガイベントを企画して声をかけてくれた、その人に今もすごく感謝しています。
南九州市頴娃町で古民家ヨガ教室をオープン
それ以降も、さまざまな場所でヨガ教室を開催し、2019年4月に活動の拠点を南九州市頴娃町に移しました。
そして、古民家ヨガ教室「息ぬきの場 〜月下美人〜」をオープン。

ゆいさん:
頴娃に移住した1年目は、鹿児島市でのレッスンも続けていたので2拠点生活のような形でした。とはいえ、その段階でもヨガだけで生計を立てるのは厳しく、農業生産法人で働いていた経験を活かして、頴娃の農家さんのお手伝いに行っていました。
一昔前と比べると、組織に属さず個人事業主として仕事をする人が増えている印象があります。メリットとしては、個人の裁量で仕事ができる。業種によっては場所に縛られない働き方ができる、などがあります。
しかし反面、個人で仕事をするということは売り上げが立つも、立たぬも自分次第。得られる自由は大きいけれど、その分リスクも多い働き方です。
さまざまな仕事を経験して、現在は個人事業主として働いている、ゆいさん。
インタビューの中で「なんとか全部払えて良かった」「自分のために使えるお金は無かった」と口にする姿に、個人で生きていく難しさも感じました。
そして難しさは和らぐこと無く、次にゆいさんを苦しめたのは、新型コロナウイルス感染症です。
ゆいさん:
頴娃の教室に来てくれていた人も来れなくなって、出張ヨガも全部キャンセル。逆に奇跡かな?と思いました。わたし、また0からじゃんって。
編集部:
ヨガができなくなった時期は、どうやって乗り越えたんですか?
ゆいさん:
あの時は知り合いの農家さんに助けられましたね。「毎日来ても良いよ」と声をかけてもらって、給与も週払いで支払ってくれました。ヨガの収入はほぼ0だったけど、それ以外で何とか食い繋ぐことができました。

頴娃に移住して2年目の現在の様子
編集部:
色んな厳しさを乗り越えて、移住して2年目の現在はどんな状況ですか?
ゆいさん:
コロナが落ち着きはじめて、ヨガも再開できるようになりましたね。あとは古民家でのレッスンを完全マンツーマンに変えたら、新しい客層が増えて、お客さんの総数が増えました。
手が空いている時間に発信に力を入れたのも良かったみたいで、最近は「インスタを見て」と言われることも増えました。

編集部:
ブログも毎日投稿してますもんね。仕事以外の面ではいかがでしょうか?
ゆいさん:
そうですね…やっと1人前の生活ができるようになったかな。その日暮らしのような状態から自分のためだったり、オンライン講座などの学びにも使えるようになっています。
あの頃の自分に語りかけるとしたら?
編集部:
さいごに今を生きるゆいさんから、過去の自分に向けて声をかけるとしたら、どんな言葉が浮かびますか?
ゆいさん:
諦めない、かな。細くても良いから、やり続ける。無駄と思えることも、やり続けることで無駄じゃなくなるから。
大きさは求めなくて良いから「どんな形でも、やり続けていれば道が開けるかもしれないよ」って伝えたいですね。
編集部:
ゆいさんが諦めずに今まで続けられた理由というか、裏付けみたいなものってありますか?
ゆいさん:
お客さんとのコミュニケーションの大切さを学ばせてくれた、あの人のおかげかな。わたしにとっての恩人です。
あの人のことを思い出すと「ここで諦めている場合じゃない」「こんなところで、へこたれいる場合じゃない」って思うんだよね。そういう存在がいたから、何とかここまで続けられたと思う。
編集部:
すごく大きな存在なんですね。
ゆいさん:
今やっていることは、その人に対するお礼の気持ちもあるかな。
続けることで何かしらの形として、お返ししていきたい。それがわたしにとって、その人に対する礼儀なのかなって。
これからもどんな形でも良いから、やり続けていきますよ。
