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祖父と父が繋いだ風景を、受け継いでいく。兄弟で老舗旅館いせえび荘を経営している徹さんと要さんのえい会話|Ei Talk – EIGO|エイゴー

頴娃(えい)に行ってみたくなる景色を提案する。頴娃の魅力を記録するをコンセプトに、EIGO編集部が、鹿児島県頴娃(えい)町で暮らす人々を訪ねて質問を重ねる「Ei Talk/えい会話」

2組目のゲストは、頴娃町の老舗旅館 いせえび荘を経営している、徹さん・要さん兄弟です。

徹さんと要さんのご紹介(プロフィール)

西村 徹:てつさん(写真左)
株式会社いせえび荘 代表取締役。1975年 頴娃町出身。地元の中学校を卒業した後は「共学がいいぞ」という父のアドバイスを受け、鹿児島市の高校に進学。同時に、寮生活をはじめる。高校卒業後は、関東の大学に入学。当時まだ珍しかったITについて学ぶ。卒業後は、コミュニティーの創造に重きを置いた建物管理会社に就職し、新規事業立ち上げに関わった。30歳を目前に頴娃町にUターンし、祖父から続くいせえび荘の仕事を引き継ぐ。1児の父。

西村 要:かなめさん(写真右)
株式会社いせえび荘 取締役。1984年 頴娃町生まれ。地元の中学校を卒業後、ロボット工学や電気技術に興味を持ち、電気科がある高校に進学。寮生活を開始。高校卒業後は、長崎にある大学の観光学科に入学。卒業後は、同じく長崎県にある6次産業(生産だけでなく、加工〜流通・販売と経営の多角化)に力を入れている企業に就職。4年半ほど働いた後に、カナダ留学。そこで今の奥さんと出会い、帰国後は地元へUターン。兄のUターンから数年後に、いせえび荘で働き始める。2児の父。

いせえび荘とは?

鹿児島県 南九州市 頴娃町の老舗旅館いせえび荘。伊能忠敬がその風景を絶賛したという記念碑が立つ、番所鼻自然公園内に位置し、全室から開聞岳と東シナ海を見渡せる。その名の通り、伊勢海老料理を堪能できる宿である(食事のみの利用も可能)フロントには、頴娃町の観光名所をモチーフにしたパフェや地元の食材を使った軽食が食べられるカフェもあり、全国各地からお客さんが訪れている。

高校進学と共に、頴娃町の外へ

南九州市頴娃町で、三姉弟の長男として生まれた徹さんと、末っ子の次男として生まれた要さん。

2人とも中学校までは頴娃町で過ごすものの、それ以降は南九州市外の学校に進学します。

 

徹さん:
両親は旅館の仕事が忙しく、送り迎えをしたり、弁当を作ったりが難しいという理由から、うちでは中学校を卒業したら寮がある高校へ進学することになっていました。

 

はじめは、進学クラスのある男子高への進学を考え、特待生の資格も取った徹さんですが、父からの「共学がいいぞ。男子校は青春がなくなるぞ」というアドバイスを受け進路を変更することに。

 

徹さん:
人生の岐路で、どの学校に進学しようか迷い、時には泣いたこともありましたが、結果的に共学に進学してとても良かったです。アドバイスをくれた父には、未だに感謝しています。

共学の進学科に入学後は、姉の部屋で読んだ演劇の台本に感動し、演劇部に入部。

2年時には主役、台本、演出を務めた作品で、鹿児島県の大会で1位に輝き、九州大会に進出しました。

 

徹さん:
九州大会では特別賞をいただいたものの、残念ながら全国大会へは進めませんでした。とはいえ、主役を務めたオカマ役(役名:あけみ)は、鹿児島の高校演劇界でファンクラブができるほど人気が出て、バレンタインには、あけみ宛にたくさんのチョコレートが届くほどでした。

 

高校卒業後は、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)に進学します。

当時、インターネットが世の中に普及する前夜。Windows 95も発売されていない時代ながら、学内には光ファイバーが張り巡らされているという特殊な環境で大学生活を送りました。

卒業後は、総合不動産管理会社に入社。IT化に伴う新規事業の立ち上げに関わり、7年ほど働きました。

 

一方、兄の徹さんの誕生から、9年後に生まれた弟の要さん。

要さんが小学校に上がる年に、徹さんは高校生になり、寮生活が始まりました。そのため、幼少期は、ほとんど1人っ子のような状態で過ごしたそうです。

 

要さん:
末っ子だったこともあり、兄が買ってもらえなかったゲームを買ってもらったりと良い思いもたくさんしました。幼稚園に通い始めるまでは1人で過ごすことが多く、空想しながら遊ぶような内向きな子どもだったと思います。

中学校に進学し「正直、勉強はあまりできなかった」と話す要さんですが、テレビで見た高専のロボット大会に憧れを抱いたことから、卒業後は鹿児島工業高校の電気科に入学します。

 

要さん:
電気科に進学を決めた理由は、ロボコンに対する憧れもありましたが、幼い頃に父がいせえび荘で、修理をしたり配線をいじったりと電気関係の仕事をしている姿を見ていたことも大きかったです。いつの間にか、自分も興味を持つようになっていましたね。

地元の中学から鹿児島工業高校に進学したのは自分1人だけという状況に、はじめは不安があったものの、寮生活での学びは大きかったようです。

 

要さん:
最初は友達もいないので「なんで僕はここに来ちゃったんだろう」と思ったこともありました。周りはラグビー部やサッカー部など、体育会系の生徒ばかり。上下関係の厳しさを目の当たりにして理不尽な思いもいっぱいしたけれど、それを高校時代に学べたのは良かったです。もう1回寮に入れって言われたら、嫌ですけどね。

 

編集部:
将来はいせえび荘で働こうと思い始めたのは、いつ頃からですか?

 

要さん:
絶対にいせえび荘で働くぞ! と強く思っていたわけではないですが、電気科に進学したことを考えると、高校に上がる頃には心のどこかで、将来はいせえび荘で働こうと思っていたのかもしれません。

そんな気持ちを持ちながら高校卒業後は、観光学科がある長崎の大学に進学。

そして、同じく長崎県にある6次産業に力を入れている会社に就職し、4年半ほど働きました。

その後、ワーキング・ホリデー制度を利用してカナダに10ヶ月ほど留学。そこで現在の奥さんと出会い、帰国後は頴娃町にUターンしました。

頴娃町に戻るきっかけになった出来事

編集部:
それぞれが頴娃町に戻るきっかけになった出来事について、もう少しお聞きしても良いですか?

 

要さん:
僕の場合は、結婚ですね。ワーキング・ホリデーでカナダに行く前は、帰国したら東京で働くつもりだったんです。けれど、あっちで今の奥さんと出会って、これから家庭を築いていこうと考えた時に、都会に行くよりは頴娃町で暮らした方がいいなと思いました。

徹さん:
東京の暮らしが楽しかったので、あまり帰るつもりはなかったんですけど……バブルが弾けて失われた10年の中で、うちの旅館も経営に苦しんでいたみたいで。ある日、両親が決算書を持って東京までやって来て「苦しいから帰って来てくれ」と。このままだと潰れてしまう、と。

 

「バブルの頃のビシネスモデルから抜け出すことができず、お客さんも年々減っていて集客もうまくいかない。インターネットの時代になっているけれど、そこもよくわからない」と両親から相談を受けたことは、徹さんにとって大きな転機になりました。

 

編集部:
両親から相談を受けて、すんなりと帰ろうと決断できたのは、いつかは自分が継ぐものだと思っていたからですか?

 

徹さん:
半分はそう思っていました。祖父がはじめて、両親が引き継いでくれたこの場所や資産を守っていかないとな、と。もう半分は、そのまま東京に残った方が良いような……両方考えられますよね。頴娃町に戻ってつぶれかけの宿を再建するより、東京で働き続ける方が安定した人生を送れたり、両親にも安定した老後を提供できたりするのかな……とか。

 

その他にも、都会で子どもを育てることの大変さや、徹さん自身が感じていた都会の生き辛さ。

また、当時から予想されていた東京の地震の問題など。様々な視点から考えた結果、30歳を目前にして頴娃町にUターンしました。

徹さんが、いせえび荘で働きはじめた頃

2人がいせえび荘で働き始めたのは、徹さんが2004年頃。

それから7年ほど経った2011年頃に、要さんも頴娃町に戻ってきました。

 

編集部:
ここからは、いせえび荘で働きはじめた頃のことをお伺いしていきます。まずは、徹さんからお願いします。

 

徹さん:
私がいせえび荘で働きはじめた頃は、全国的に見てもホームページを持っている宿が少なくて、旅行専門雑誌に宿の情報を掲載してお客さんを集めているような状況でした。世の中のさまざまなものがインターネットに移行していく中で、大学や会社で学んだITスキルが活かせるとは思いつつも、口コミや評判が非常に怖かったので。ホームページに力を入れるよりも、まずは宿のレベルを上げることを優先しました。

徹さん:
当時は赤字経営で投資に回せるお金がなかったので、まずは掃除からはじめました。トヨタ式の5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)を参考にしながら、いらないものを捨てたり、倉庫の中を整理したり。少しずつ職場環境を良くしていくことで、従業員とお客さんが過ごしやすい宿に育てていきました。後は、メニューの内容や価格を見直して利益が出るような形に整えたり、いせえび荘の強みを整理して投資する分野をハッキリさせたり。とにかくお金をかけずにできることから、取り組んでいきました。

徹さん:
そうやって3年ぐらいかけて、少しずつ改善を積み重ねていくことで従業員のサービスレベルや清掃の質が向上していって、最低限マイナスをゼロに。プラスにしたかったけれど、そこまでは持っていけなかったので、マイナスをゼロにしたところでWebを使った情報発信に力を入れていきました。

要さんが、いせえび荘で働きはじめた頃

編集部:
徹さんのUターンから数年後に、要さんもいせえび荘で働きはじめますが、当時の思い出や苦労したことなどありますか?

 

要さん:
苦労というとおこがましいんだけど、はじめの頃は従業員の人とのトラブルもありました。自分が良いと思ってやっていたことが、相手にとってはおもしろくないことだったことも。トラブルやハプニングは、何度か経験しないと慣れないですよね。

 

編集部:
それは、要さんの中である程度理解した上で挑んでいた感じですか? それともトラブルがある度に凹んだり、落ち込んだりしていましたか?

 

要さん:
凹むはあります。凹むことはあるけど、新卒で入った会社でもそういうもんだと思っていた部分があったから割り切りはできていたかな。でも前の職場の時の方が初めての会社だったこともあって、そこしか見えていなかったから、もっと大変だったような気がします。

兄弟が同じ職場で働く中で感じたこと

編集部:
兄弟が同じ職場で働いていると、身内だからこそコミュニケーションがうまくいかなかったり、反対に変に馴れ合ってしまったりが起こりそうですが、いかがでしょうか?

 

徹さん:
今はほとんどないですが、Uターンしてしばらくは自分も若くて、怒るような激しい言い方をしてしまった時がありました。従業員に対して頭ごなしに怒鳴ることはなかったと思うけど、親に対しては私も甘えがあって「経営者なのにどうしてわからないんだ!」と強い口調で訴えてしまったこともありました。当時は、コミュニケーション能力も低かったですね。今も反省しています。

 

編集部:
要さんは、どうでしょうか? 徹さんと意見が分かれることもあると思いますが。

 

要さん:
兄は小さい頃から勉強もできて優しかったので、僕自身すごく尊敬していました。2人で旅行に行ったこともあるぐらいだから、仲は良い方だと思います。一緒に働き始めると考え方が違うところもあるから、ぶつかることもあるけれど、最近はあまりぶつからないです。もうお互い大人になっているから、何か意見を言い合うときでも線引きができるようになりました。最終的には、社長である兄の意見を尊重することが多いです。

要さん:
他所の人から「兄弟で経営ってうまくいかないよ」と言われたこともあったから、うまくいくように工夫していきたいですね。見返したいというか、なるべくうまくやっていきたい。

 

編集部:
徹さんは弟の要さんと働くようになってから、変化したことなどありますか?

 

徹さん:
要が帰って来てくれたことで、やりたいことが倍の早さで出来るようになりました。物事のスピードが、5年ほど早まったと思います。チェックイン・アウトの対応やお客さんの食事の準備、調理場の仕入れ関係や各所との打ち合わせといった現場仕事を、要に任せられるようになったおかげで、私は経営やマーケティングに時間が割けるようになりました。その中で補助事業も活用できるようになって、加速度的に結果がついて来るようになりましたね。

あの頃の自分に語りかけるとしたら?

編集部:
さいごに、今を生きる2人から「あの頃の自分に語りかけるとしたら」どんな言葉が思い浮かびますか?

 

要さん:
結果的にこれまでの選択は良かったけれど、将来についてもうちょっと考えても良かったんじゃない? かな。中学生で行きたい高校を決める時に、この高校にいかないとあの大学に行けないとかを知らなかったのね。その辺の知識が全くないまま節目節目の選択をして来たから、本当だったらもっと情報収集をして、色んな可能性を模索した方が良かったんじゃないかな? って。結果的には進学した高校で良い友達も出来て、寮生活で学びもあって良かったけど、もうちょっと考えても良かったかもね。

 

徹さん:
Uターン直後の自分に対して語りかけるとしたら、人とのコミュニケーションの取り方をもっと早く学べたら良かったよね。怒ったりとか大声を出したりとか、威圧的な態度で接していたら人は動かないです。相手が求めていることや本人がやりたいことを理解した上で、相手が喜ぶようなコミュニケーションや関係づくりをしていかないと人は動いてくれないよ、と。まだまだ今も出来ていないけど、そこは経営者として仕事をしている中で特に感じていることかな。そこがもうちょっとうまく出来ていれば、社内の改善ももっと早く進んでいたかもしれません。

 

編集部:
どんな仕事も自分1人だけでは、出来ないですもんね。

 

徹さん:
そうですね。人との関係づくりの難しさは、誰もが通る道だと思います。親との関係だったりね。もっと良いやり方があることを、ここ10年くらいで学びました。それぞれ得意、不得意もあるし、女性と男性も違うし。あの頃の自分に会えるとしたら「相手のことを理解してコミュニケーションを取ること」を強くおすすめしますね。

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宿泊・記念日に開聞岳を望む旅館|いせえび荘

 

かざり

かざり

2019年に移住。2023年1月まで南九州市頴娃町の地域おこし協力隊として活動し、卒業後も同じ町で過ごしています。ライターや広報の仕事をしながら、地域でも活動中。好きなドリンクは、赤いコーラです。